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【海外編】灼熱と貧困に駆り立てられて - カンボジア

これは以下の記事の続きである。

初の海外渡航のきっかけとなったのは、ごまんとある学生団体のパクリ活動であった。いわゆる途上国でのチャリティ活動である。ただ、私たちが他と異なったのは、「まず現場へ足を運んで、現地の声を聞かなければならない。人々が本当に必要としているものはこれ以外に知り得ない」というものである。活動は現地訪問後に本格化すると公言し、メンバーの過半数が降りた時点でこのプロジェクトの頓挫を悟ったのだが、それでも残った連中は、プロジェクトの達成云々よりも戦争と貧困が招いた惨劇を知ることに価値を見出し、渡航は実行された。

以下は以前のブログで掲載していた内容なので、少し真面目な書き方をしているが、読み進めるうちにこれがどうして真面目でなければならないかはすぐ悟っていただけるはずである。

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初の海外渡航先はカンボジアだった。当時はカンボジアの貧困問題の現状視察という漠然とした目的で首都プノンペンを訪れた。初めて嗅いだ太陽と人間が放つ灼熱の匂い。ホテルでカンボジア人の知人と落ち合った後、興奮が冷めぬうちに収容所跡へ足を運ぶことにした。


1976年、プノンペン市のとある校舎は、教室が煉瓦の壁でぞんざいに仕切られ窓には格子が組まれ、簡易収容所へと姿を変えた。クメール・ルージュによって”危険分子”とみなされた人間は徹底的に収容され、拷問され処刑された。その数は数万人に及ぶ。生きて出られた者はいなかった。博物館として一般公開されている今は、当時の拷問を描写した絵画、拷問器具、収容者達の顔と遺体の写真で埋め尽くされている。数多の命は血となり床を黒く染め、今日も尚絶望を語りかけてくる。 


帰路に着く途中、知人は冗談混じりでこの収容所跡付近で幽霊の声を聞く噂が絶えないと語った。そんな知人も幼くして両親をクメール・ルージュで失い、親しい友人は知人のわずか数メートル先で地雷を踏んで飛び散った。地雷の破片は知人の脚にも痕を残した。唯一生き残った妹と、来る日を踏みしめるように生きている。ホテルに着き多少の金を包むが、知人はどうしても受け取らなかった。「君が今日見たものをより多くの人間に知らせてほしい。それが僕が一番望むものだ。」と言い残し去っていった。


翌日も汗を迸らせながら、孤児院に辿り着く。頼んでもいないのに日本語のガイドが現れた。実は彼もここの孤児の一人で、働き口を増やすために日本語を学んでいるということを本人の口から聞く事となる。僕と同い年だった。彼も両親をクメール・ルージュで失い、孤児となった。孤児院は彼に導かれるように、ひたむきに生きる孤児の笑顔で溢れていた。この国を心のどこかで侮蔑して訪れた己の傲慢さが、生気を失った物乞いと同じように感じられた。彼らの様にひたむきに生きるには、心が貧しすぎた。

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この孤児院で出会った青年は、その数年後に訪日の夢を叶えたのであった。この青年こそが、私の人生のターニングポイントだった。彼から人間の信念がもたらす力を学んだのだ。

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