ブレーキランプより赤いもの__ずっと夜の部屋
蛍光灯切れた
ミカミからメッセージが来てアラームよりも1時間早く目が覚めた。
ミカミからのメッセージは唯一、通知が鳴るように設定してある。
ミカミはうちから歩いて5分もかからない距離に住んでいる同じ大学の女だ。
僕は絵画科で、ミカミは彫刻科なので、大学で頻繁に顔を合わせることはなかなかない。
替えあるの?
ある。
コンタクトつけたら行く。
タバコ買ってきて。
わかった。
昨晩床に脱ぎ捨てたジーンズの抜け殻に足を入れて、洗濯したばかりのパーカーをハンガーから剥ぎ取り、Tシャツの上に被る。洗濯しても落ちないくらいパーカーには絵の具の色が散らばっている。ぼやけた視界のまま、隣の部屋で眠っている祖父母を起こさないように慎重に歩き、洗面所でコンタクトレンズを瞳に浮かべる。
部屋に戻り、鍵とスマホと、ミカミがだいぶ前にうちに忘れていった煙草と、ミカミではない女と行ったラブホテルの名が書かれたライターをポケットに突っ込んで家を出た。裏起毛のパーカーを羽織っても、冷たい風には敵わなかった。夏も嫌いだけど、冬はもっと嫌いだ。
コンビニに寄ろうとしたが、煙草が半分以上残っていたのでやめた。
ミカミの部屋に着いて、ドアの前でメッセージを送る。
ミカミにはインターホンを鳴らさないよう言われている。
着いた
入って
部屋にはミカミの姿がなく、代わりにタバコの匂いがした。肌寒い季節になっても、煙草を吸っているときでも、ミカミは部屋の窓を開け放す。
夏に網戸を張り替えたのが遠い昔のことのように思える。白いカーテンの隙間からミカミの後ろ姿が見えて、僕はそれをしばらく眺め続けた。
白いカーテンは僕を弄ぶように意地悪く揺らぎ続ける。
ミカミを眺めるうちに、自分の首が右側にほんの少し傾いたことに気づく。
犬が飼い主の顔を見て首を傾げるのは、視界を広げて飼い主の顔をよく見るためだ。という話を思い出した。
ベットのそばにあるラックの1番下の引き出しを引くと、同じ蛍光灯が3つ並んでいた。タバコの予備は買っておかないくせに蛍光灯は3つある。蛍光灯が頻繁に切れることはないが、不安なのだろう。
ミカミは暗いところが異常に苦手で、電気をつけっぱなしにしていることが多い。なにがあったのか、僕の想像以上にむごい過去があったら受け入れられる自信がないので、僕はミカミに何も聞かない。
キッチンには、2枚の皿と、2膳の箸が、洗ったばかりだということがはっきり分かるくらいに水を滴らせていて、息を吐いた。
ため息じゃなくて、漏れてしまうような感覚。
この部屋に皿が存在していることを初めて知った。存在していたのか、それとも僕がこの部屋に来ていなかった時期に持ち込まれたのかは分からない。
机にはサトウのごはんが1パックと食パンが3枚袋の中に残っていた。冷蔵庫を開けると、納豆、牛乳、イチゴジャム、ペットボトルじゃなくガラスのピッチャーに入れてあるお茶、皿とラップに挟まれて息苦しそうなきんぴらごぼう。
人がこの部屋で生活しているということがはっきり分かるラインナップ。
僕はまた息を吐いた。ミカミは基本的に料理をしない。湯を沸かすこともない。ほとんど外食で済ませているし、のどが渇けば、蛇口をひねってグラスに注ぐ。
ミカミは生活が似合わない女なのだ。ていねいな暮らしではなく雑な暮らしをする女。
そもそも生活とか、暮らしとか、この女には結びつかない。
ミカミの中に生活はないし、生活の中にミカミが存在するわけでもない。
だからこの部屋で起きているすべてがミカミによることではないと容易に想像できる。
新しい蛍光灯を紙箱から出す。
ミカミの住むアパートは築30年近いボロアパートで、僕はなにかあるたびに呼び出される。特に夏は虫がよく出るので、日夜問わず呼び出されていた。虫は緊急事態案件なようで、メッセージではなく電話がかかってくる。
「来て」と一方的に言って、すぐに電話を切る。
最近呼び出しが減ったのは、寒くなって虫が出なくなったからではなく、
固定の男ができたからなのだろう。冬は冬で虫が湧くようだ。
蛍光灯が入っていた紙箱を破いていると、ミカミが網戸を引いて部屋に戻ってきた。
僕はどんな顔をしたらいいのか分からないので振り返らずに
もう光らなくなった蛍光灯を取り外していく。
水切りかごに立てかけられた皿が視界の端にチラついて居心地が悪かった。
ミカミがこちらに歩いて来るのを感じる。構わず僕は新しい蛍光灯をつけるために両腕を上げると、背後に立ったミカミが細い腕をすっと僕の体に回した。
ミカミの細い腕を解いて、振り返り、ミカミと向かい合う。
胸の上まで伸びた黒髪は大して手入れされていないにも関わらず艶を纏っていた。
左手をゆっくりミカミの顔に近づけると、ミカミは僕の左手と同じくらいゆっくりと瞼を閉じた。閉じた瞼に刻まれている幅の広い二重の線を親指でなぞってみる。親指でミカミの瞼がかすかに震えているのを感じて、もっと奥に触れたくなった。
ポケットから煙草を出して、ミカミの口に咥えさせようとすると拒まれて、腕をキッチン台に押し付けられ、唇が触れる。
彼氏?できたんじゃないの?
俺面倒ごとは嫌だよ。人の女に手は出したくない。
ミカミの乾いた唇が離れた瞬間に僕はそう口に出していた。
僕がここまではっきりとミカミに感情をぶつけたのは初めてのことだった。
これまで何度か男の影がちらついたとしても、僕は触れないように徹底していたので、
ぶつけられたほうのミカミよりもぶつけたほうの僕自身が驚いていた。
わたしを勝手に憐れんで、面倒みてあげる。って偉そうに言ってくる男なら、確かにいるね。
ミカミが顔を傾けて僕の瞳の奥の方を見つめながら言った。
ミカミが顔を傾けるのは自分が一番美しく見える角度を僕に見せるためであって、僕をよく見るためではない。ミカミは僕じゃなくて、僕の瞳の中のミカミを見ている。
ミカミは全く表情を変えずに体温だけを上げて、蛇みたいに、舌も、足も、手も使って、欲張りなほど僕の体に沿っていく。ミカミが服を脱ぐために僕から離れると、僕の肌は空気に晒されて冷たくなり、余計にミカミの肌が恋しくなる。ミカミが服を脱いでる数秒間がカップ麺がふやけるのを待っているときと同じくらい長く感じた。ミカミが僕の体に這うと、ミカミの肌が触れた箇所から痛いくらいに熱が広がった。
ミカミに触れられると僕の固い体は柔らかくなっていく。
ミカミに触れられているときだけ自分の体が愛しく思える。
ミカミは僕に指先で触れられると、薄い皮膚の奥底から色を覗かせた。
水で薄めた赤を滴らせた筆を画用紙に落としたときと同じように、色が滲んで、広がっていく。ほんのりとした赤。
絵を描いているときの快感を得たばかりの幼い頃を思い出して、もっと欲しくなって、唇でミカミの首元に花を咲かせながら、ミカミの中に潜り込む。
眉を歪ませているミカミを下から眺めて、ミカミの美しさを嚙み締めた。
触れているときだけ現れ、離れたらすぐに消えてしまう美しいものに僕は夢中で、いつまでもミカミのことがやめられずにいる。
ミカミと自分の体を解いて、そのまま布団に包まって眠っていたため寒さで目が覚めた。陽が完全に昇っているはずなのに寒い。
窓を閉めたいけど、手が届かないので諦める。
上半身を起こして部屋を見渡す。家具が少ない部屋に僕の着て来た服が散乱している。
ジーンズは僕の部屋で抜け殻と化すよりも、この部屋で空っぽになるほうが生き生きしていた。
ミカミの服は布団のすぐ近くに落ちていた。
ミカミはいつも僕のすべてを脱がせたあとに服を脱ぐ。
僕が脱がせる前に自分で脱いでしまうので、いつもなにか物足りない気持ちになる。
再び布団のなかに包まって、ミカミの寝顔を今のうちに見ておくことにした。すぐ目の前にミカミの手が落ちている。指先に乗っている白い部分をほとんど失った深爪と指の境界線をなぞる。爪を短くしているのは爪切りではなく、ミカミ自身の歯だ。ミカミは僕の前で爪を噛んでいる所を見せたことがないが、僕の母が深爪だから爪の先を見れば分かる。
数か月前、母が男と住むと言って家を出ていった。
父と離婚して以来、母の実家に身を寄せていたので、僕は母方の祖父母の元にそのまま残された。
母は僕を連れていくつもりは全くないし、僕もついていくつもりは全くなかった。
ただ、母がいなくなった部屋は母がいたころよりも暖かく心地よく感じて、はじめのうちは戸惑った。
母はあまり部屋のカーテンを開けることはなく、窓も閉めっぱなしだったので、単純に陽が入ってきていなかっただけだろうが、僕は母がこの部屋から出たこともどこか関係している気がした。
母は、男の部屋よりも実家の方が職場が近いという理由で昼休みはうちで昼食を取った。
昼食を取るついでに部屋に残っている荷物を少しづつ運び出していたので
部屋から完全に母の荷物がなくなるまで2か月もかかった。
2か月間、毎日少しずつ母がいた痕跡が消えていく間、僕は家に帰るとまずはじめに母の部屋に入り、その日母が持って行った物がなにか見つけるようになった。そのうちに、母は僕の為にこんな風に面倒な引っ越しをしているのかもしれないという考えが頭の中を彷徨ったが、すぐに消えた。母がそういう類の愛を持ち合わせていないことは分かり切っていたはずなのに、一瞬でもそんな期待が脳内でふらつくことを許した自分を恥じんだ。
母と同じようにミカミの爪も縁がまっすぐではなく、触り心地はざらついている。左手の親指はすこし引っかかりがあるし、右手の人差し指の端はすこし赤い。きっと深いところまで爪を噛んだときに血が滲んだだろう。ミカミはその人差し指を口に含んで舐めただろうか。いつかミカミの鮮明な赤が見たい。