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つづき 所帯染みた家家を横目に歩くと 一軒だけ小さめのスーパーがあって 手ぶらで訪れるつもりしかなかったわたしは 特に何かを買う予定もなく、 ぶらりと その古くて汚い、店の自動ドアをくぐった。 ドアが開く瞬間の 独特の乾いた、アメリカのgrocery store 食料品店の匂い。 マンハッタンにも同じように山ほどのスーパーと呼ぶにふさわしいような店もあったが、 わたしはその、スーパーマーケットではなく”食料品店”という言い方が とても、好きだった。 それは
その日は今日のような爽やかな、夏の陽気の残りカスが混じった秋晴れで ハドソン川の向こう岸について、 その川沿いの公園から一望できるミッドタウンのビルたちは 中にいるときはねずみ色の無機質な巨人に囲まれているようなのに それはそれは、 美しい並び方をしていることを知った。 視界を遮るものはなにもなく、空には雲ひとつなく、 わたしはやっぱり 何も持っていなかったけれど その真っ青な風景を ただ何枚も、カメラに収めた。 バスだか電車に乗って向こう岸へ渡る機会は
おむつの濡れた、鳴き声を長い時間聴いて 遅くおきる朝 ゆっくりおきて はじまりの朝を迎える いつもと違う朝 いつもと同じ朝 安い、雑な black teaじゃなくて 美味しい紅茶を淹れよう。 山もりに散らかった カウンター下のお茶コーナーを漁って 長いあいだ足を運んでいないお茶好きの店主のお茶やさんで買ったお茶の袋がいくつか、目に入った。 ひとつに、「始まりの福紅茶」と書いてある。 丁寧に、白いホーローに湯を沸かす。 湯、ひとつ沸かすのも、もちろん丁寧
”少しの野菜とくだものと、そしてハグとキスがあればそれでいい、 わたしの人生。” 2010年頃から長い間 掲げていた、わたしのタイトルがこれだった。 その生活は ほんとうに シンプルなもので でも質素だったが 地味ではなかった。 わたしの料理のひとつのルールに どこまでもシンプルに、 でも決して野暮ったく地味にはしないというものがある。 それはいつも、 洗練されていてほしい。 それはいつも、 美しくなければいけない。 それがあって 初めて
秋。 季節が入れ替わり、まずわたしが始めることは スープを作ることだ。 わたしにとってのご馳走は、シモフリとかフォアグラではなく 自分でこしらえた 一杯の野菜のスープ。 夏のご馳走だったら、果物だけで作ったスムージーだったり 庭でちぎってきたレタスとかトマトを常温でお皿に盛って レモンとオリーブオイルと塩をかけただけ とか 年中だったら オーブンから上がったばかりの スコーンであったり 上質な一杯の紅茶であったり そういうもの。 わたし