"死の場処、死の記憶 Place of Death Memory of Death"
このWes(Westley Allan Dodd)の日記は, Dodd, Wesley Alan Dodd: Diary?というタイトルのGoogleグループに投稿されたもので質問者が2019年に少し前にインターネットかニュースグループに投稿されたとされる彼の日記の全文について質問し、それに回答されたものです。
Gary C. Kingの著書「Driven to Kill (English Edition)」にはその一部が掲載されているものの、全文がおそらくそれまで公開されていなかったようだ。
まだ続き(3人目の殺害についての記録)があり、今後、翻訳してゆく。
Wesが処刑を待つ間に書いた手紙「When Monster Comes Out of the Closet (English Edition)」の方がまだ250ページ中の163ページまでしか翻訳して読めていないため、このWesの最初の殺人の記録( "death log" )について深く言及するのはその手紙の方を読んだ後にしたいという気持ちがあるのだが、今どうしても言及したいことがあれば表現したいという想いがある。
ただ最初の殺人とそれの計画についての箇所はWestley Allan Dodd – One of the Most Evil Child Killersのサイトに多くの"伏字"があるものの、既にわたしはそれを読んで翻訳していた為、二度目の翻訳となったことはかなりの苦痛を伴う作業だった。
とにかく、このような作業は自分の人生で初めてであったし、実際の殺人事件を基にして、犠牲者を8歳の自分に置き換えて小説で表現するといったことをするのも初めての経験だった。
Wesは、もう一人の子どもを殺している為、その事件も今後、同じように小説で表現する。
そのWesを最初に表現した小説は7月4日のものだったが、それから二カ月経ち、"When Monster Comes Out of the Closet"を読みながら、想わず微笑んだり、声を出して笑ってしまうなど、Wesの純真さや彼の才能というものがだんだんと良く見えて来た今、初めての殺人のシーンを表現しなくてはならなかったのは、わたしにとって本当に苦しく悲しい作業だった。
それは間違いなく、彼(Wes)自身をも、破壊し尽くし、殺害する行為であり、それ以外の何かじゃなかった。
Wesには本当に天才的に素晴らしい部分がたくさんあったのに、そのすべてを自ら崩壊させ、真の破滅へと向かってしまった。
わたしはWesの悲しみを通して、確かにこの世界に対して切実に訴えている。
よく、殺人者や自殺者に対して、こんな無慈悲な言葉を吐いている人をネット上に観掛ける。
「一人で誰にも迷惑を掛けずに死んでくれ(れば良かったんだ)。」
Wesに対しても、そのような意識を持つ人の方が多いかもしれない。
Wesのなかにある深い悲しみは、わたしの中にもある。
同じ悲しみと、同じ訴えが確かにわたしの内にも存在している為、こうして縁があって彼と出会い、苦しみのなか彼について表現しつづけている。
未来の殺人者や自殺者が、だれにも迷惑を掛けずに死ぬのならば、此の世が良い方向へと向かう(生命の強制的な地獄と拷問の苦痛が終る)わけでは決してない。
何故なら人々は無慈悲で、利己的な(自分と自分の愛する者だけの幸福を祈り続ける意識の)ままだからだ。
もし、自分は利己的でも無慈悲でもないと言えるならば、此の世で最も悲しい人生のひとつを送って処刑されたWesというひとりの人間に対して、深く寄り添おうとすることができるのではないだろうか?
それは決して、"自分の子どもを性犯罪者や快楽殺人者から護るために彼の人生(心理)を研究すること"ではない。
Wesの悲しみに無関心の人は多く、またわたしの悲しみにも無関心の人の方が遥かに多いということをわたしは知っている。
つまり多くの人は、"ひとりの人間の底のないような悲しみ"よりも、もっと他の浅ましいものに関心を寄せ続けている。
僕のこの切実な訴えは、Wesの自分を破壊せねばならなかったほどの悲しみと痛みは、(たとえ存在を知っていても)ほとんどの人に聴こえないし、それは聴かれないまま、彼らは死ぬであろう。
でもそれは、仕方がないのだろうか。
"自分が本当に壊れてしまう瞬間"を経験したことのない人たちは、僕やWesの悲しみが届かないのは、仕方がないことなのだろうか。
僕は死にたくはならないが、僕の悲しみはいったいだれに届いているのかわからない。
いったいだれが、僕を無条件の愛によって見つめているのだろうか?
いったいだれが、Wesに殺されたこどもたちを、その悲しみと苦痛を、無条件の愛によって、見つめつづけているのだろうか?
僕はWesに殺された子どもたちが、今でも"死の場所"で、ひとりで泣いているように感じる。
それはだれもが、"条件付きの愛"でしか、彼ら(殺されたこどもたち)さえも愛していないからなんだ。
殺された子どもたちは、Wes自身だ。
彼は自分自身(子どものままでずっと泣いていて、愛されない自分を憎みつづけている自分自身)を自分の手によって残酷に殺さなくてはならなかったんだ。
彼は愛されなかったからだ。
彼の切実に求めつづける、その愛によって、だれも彼を、愛さなかった。
ずっとずっと、今も、"死の記憶"のなか、Wesは泣いている。
そして僕も、ずっとずっと、そこに(死の場処に)独りでいる。
Huerco S. - QTT4