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内藤礼「生まれておいで、生きておいで」

本館入り口のstaircaseは美しい。ハリーポッターの寮のように動き出しそう

展覧会情報

東京国立博物館に内藤礼「生まれておいで、生きておいで」を見に行った。
会期は2024年6月25日(火) ~ 2024年9月23日(月・休)

企画連携として、エルメス銀座店にて同名の展覧会が開催されており、こちらの会期は2024.9.7(土)~2025.1.13(月・祝)

公式サイト:
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2637
チケットは売り切れている
また、撮影は禁止されている

会場は博物館の中で三か所にわかれている。

第1会場 平成館企画展示室
第2会場 本館特別5室
第3会場 本館1階ラウンジ

チケットには入場時間が定められているが、これはひとつめの会場に入る時間で、ふたつめ以降は自由である。また、おそらく再入場も可能だ。

この配置は明らかに、内藤礼の展覧会を目当てに来た人が、国立博物館の常設展を見ながら館内を歩き回ることを想定している。
内藤礼の展示にも彼女の作ったものではない数々の土器や動物の骨が取り入れられていて、この博物館の存在意義に組みこまれ一体化して、そこに命を吹き込んだかのようだ。
彼女の展示は、顔となり口となって、博物館の歴史や思い、そこに所蔵された古いものたちの見てきた時、そして連綿と続く人の営みについて語っている。

キャッチーでポピュラーとは?

東京国立博物館に来たのは、久しぶりのことだった。
上野には何度も来ているけれど、たいていは東京都美術館か国立科学博物館に来るんだよな、
なぜだろう?

企画展の趣味が合っているのかな。
キャッチーでポピュラーなものが多いのかもしれない。
私はそういうものにはまず飛びつくことにしているのだ。
多くの人が評価してきたもの、多くの人が知っているもの、それらを知らなければ、マイナーでとっつきにくいもののことはわからない。

内藤礼という作家はどちらかというと、キャッチーでもポピュラーでもないと私は思っている。個人の感想に過ぎないけれど。

美しさがキャッチーで、チケットを完売させる人気がポピュラーであるなら、彼女は間違いなくそれに当てはまるはずなんだけれど、
あれだけ多くの人が、
あの作品を目の当たりにして、
私と同じものを見ているのか?
「いかにも楽しくて興味深いものを見ています」という目の輝きとほほ笑みをたたえながら?

そう思うと世の中の人々の像が私のなかで覚束無くなるのだ。

弔い

なぜなら、
私はいつも
内藤礼作品に、
弔いを感じているからだ。
強く。
強く。

皆は何を弔いに来ているのだろうか。

それとも美しさや不思議さ、繊細さなどの断片で心を洗いに来ているのだろうか。

「でもその水、三途の川だよ。」

そんな
こわさと
気持ちわるさが
内藤礼作品だ。

生きながら自らを葬っていくような、
静かに列をなして
呪われた輪廻に
粛々と
還っていくような

今回もその色が濃かったように思う。

内藤礼の代表作、豊島と直島

内藤礼作品といえば豊島美術館の『母型』と直島家プロジェクト『きんざ』の『このことを』が真っ先に頭に浮かぶ。

豊島美術館では、白いドームにころころ無限に生まれ姿を変え続ける水滴と、大きな開口部の向こうの青い空と風になびいてきらめく透明な糸。まぎれもない美。

『きんざ』では暗い土間に一定時間閉じ込められるという特殊な環境の中で、床の数センチ幅にめぐらされたスリットからの光や、アートの街を散策する人々の話し声などがかすかに漏れてくる。そこで見るものはひとそれぞれ自由だが、私がみたものは先祖から子孫へとめんめんとつながる禍々しくも力強い命のストリームだ。

どちらにも共通しているのは、
内藤礼は人を敏感にさせる。過敏にさせる。異常に過敏にさせる。
そして人々はそこに書かれていないもの、そこに置かれていないものを見るようになるということだ。思い思いに。

何が言いたいとか、そういうことが彼女の真骨頂なのではなく、
(おそらく生と死の同一性とか、連続性とか、種としての(つまり一人称複数としての)生命の存続、そして葬られてきた無数の命たちの感じてきたこととか、そういったことがテーマなんだろうけれど、そこではなく)
この、『人の感性を研ぎ澄まさせる』というところにこそあると思う。


ある日、仕事から目を上げて見つけた壁に反射した陽の光。「あ、恩寵」と思って撮った一枚。日常に深く入り込んでいる。内藤礼作品は写真に撮れないので、字から目を休めるために拙いながら

1.霊安所あるいは新生児室

第1会場は細長い会場で、ガラス張りの向こうのオブジェを覗き込むようにして見る。こちら側にも天井からテグスでつるされたポンポンや白い風船などがぶら下がっている。
とても暗いがかすかに青みを感じる光が展示物を照らしている。
長いベンチに座って眺めることもできる。

ベンチは美術を眺める人の休息する場所というよりは展示の一部であり、病院の廊下に座っているような気になるベンチだった。

この会場は霊安所のようでもあり、新生児室前の廊下のようでもある。
生は死であり、ここではどちらも新しい。

2.墓あるいは賽の河原

第2会場は二階部分にぐるりとバルコニーを設けた吹き抜けになっている。
壁にはアクリル絵の具でかかれたとても薄い色彩の絵がぺたぺたとただ貼りつけられている。
私はこの絵が怖かった。麻酔がさめていくときの、あるいは非常に病気が重くいときの、朦朧とした世界が像を結ばないままそこにある、といった感じ。

天井からつるされているものがあるのはいつものように。

足元にはアクリルケース(ガラスかも?)に収められた内藤作品や古い出土品が納められ、周囲には目立たないがささやかなお供えのようなものが配置されている。石や、紙などが。

この会場も座れる場所があるが、床に置かれた木の板になっており、
靴を脱いで座ることになる。
座って見ていると見物している人々がしゃがんだり腰を折ったりして床に配置された透明なアクリルケースを細心の注意をはらって覗き込み、息すらころしている。

ああ、あの透明なケースは、棺なのだな。

3.肉と悲しみが朽ち洗われた後に再び

第3会場は蓮が植えられた池が見える美しい庭に面している。
この庭をのぞかせるガラス張りのフランス窓がまた、美しい。
ちょっとした広い廊下のような場所で、通りすがりの人が休む椅子が置いてある。
非常に混雑する場所で、他の会場のような静謐さはない。

床に、神奈川県立美術館葉山館で見たような、ガラスの台の上に載った水の入った瓶『母型』がある。
人がうっかり蹴飛ばさない、
ぎりぎりの攻めた展示だ。
二人がかりで見張りが付いている。
壁にはタイルと同じサイズの小さな鏡がところどころに張り付けられている。とても絞り込んだ、小さな数だ。
床にある『母型』には、内藤礼展覧会に来たわけではない常設展の見学者たちも気付いて、ガイドに説明を受けたり眺めたりしていたが、壁の鏡にはなかなか気付かない。
それを意図している。

第一会場、第二会場の文脈でこの『母型』を見ると、
やがて覚えているものもいなくなった死者なのか、
ふたたび生まれてくるまでのニュートラルな状態なのか。

そしてそこを後にする


そして私は本館の扉を出て左手から奥にもどり、
窓の外に見えていた美しい庭にたどり着き、
石のベンチに座って、
カロリーメイト1本と、麦茶を口にして
また
今日も
生きた心地を取り戻した。


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