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血の婚礼

作:フェデリコ・ガルシーア・ロルカ
翻案・台本:木内宏昌
演出:栗山民也
劇場:IMM THEATER
観劇した日時:2024/12/12 13時

花嫁:伊東蒼(いとうあおい)
レオナルド:中山優馬(なかやまゆうま)
花婿:宮崎秋人(みやざきしゅうと)
レオナルドの妻:岡本玲(おかもとれい)
花婿の母親:秋山菜津子(あきやまなつこ)
花嫁の父親:谷田歩(たにだあゆみ)

言わずと知れたロルカの名作、と言いたいところだけれど、血の婚礼を収めた岩波文庫、廃版になっているのをご存じだろうか。
もうロルカは読まれないのだ。
私は今回の観劇の準備として、ネットで古本の『三大悲劇集 血の婚礼 他二編』を買って改めて読んでみた。

血の婚礼は一番短い文字数で説明すると『結婚式当日に花嫁が過去の恋人と逃げて花婿と恋人の両方が死ぬ話』だ。

高校の図書室でロルカの戯曲を読んでその激しさと美しさに強く惹かれたものの、舞台を見たのは今回が初めてだった。

けっこうロルカの戯曲と違う箇所が多かった。
翻案しているということなのでそんなものなのかもしれないし、中には感動的な効果を生んでいるものもあった。
しかし、新たな謎を生んでいるものもある。
ロルカの原作がもともと大いなる謎をはらんでいるのに、である。

そもそもロルカの原作を読んで、そのシンプルかつ神話的で絶対的な物語にひれ伏しつつも疑問に思わずにいられないのは、
「この人たちなんで結婚しなかったんだっけ?」
ということである。
これが疑問の表側、A面。

そしてそれと対になって裏側に張り付いている疑問のB面が、
「『花嫁』が処女だっていうのは本当なの?」
ということ。

まず処女の話からしようよ。下世話な方からね。

花嫁は自分は処女である、ということをたびたび口にする。世間体としてというだけでなく、逃避行中のレオナルドと二人きりの場面でもそう言う。
3年付き合っても処女、ということはあり得ると思うよ。まああなたがそういうならそうなんでしょうねと相槌を打ちますよ。
ですが、すべてを捨て命までも投げ打って駆け落ちするほどの執着を、寝たこともない相手に抱きますかね??
私は抱かない。

でも今回の台本だと、そもそも処女性に疑問符が付くのだ。
「大きな声を出すわよ、私声は大きいんだから!」と花嫁が言うと、
レオナルドはこう言うのだ。
「昼間の声も大きいんだな」

え?

は?

夜のよがり声も大きいよな、っていうある種のリベンジポルノ、と感じた私は下ネタセンサーが高感度すぎるのだろうか?

でも処女だって主張するところはいっこも削ってないからなぁ。
どっちなんだ。
どっちでもいいけど、この劇においてはどうでもよくないだろ。

うーん、新たな謎である。

まあ仮に処女だったとして、こうも考えられるかもしれない。
ある人々にとって、もしくはある年齢、ある若さの人々にとって、すでに得た過去のセックスの身もふたもない内容とその快楽より以上に、ある期待の方が激しいのだ、と。抑えようと唇を噛み足をぎゅっと合わせても奥深くから自分を突き動かす欲望は、かたちを持たず見ることもつかむこともできないのに、今あるすべての眺めをぽうっと変容させて、私たちを見えない手で引きずっていく。

ところで、レオナルドと花嫁との二人きりのシーン、ラブシーンは2回ある。結婚式の朝にレオナルドが自分の妻子を置いて馬で駆け付け、思いのたけをぶつけるシーンと、森の中を追っ手から逃げているシーンだ。
どちらも美しい。
翻案や演出が活きているところだ。
そして伊東蒼が天才だ、と見せつけられる場でもある。

森の中のシーンでは、うち伏していた花嫁は衝動的に地を這ってレオナルドの足の甲に頬ずりして横たわり、彼への愛を吐露する。
仰向けになって手を伸ばし、
「なんて美しいの…」
と恍惚とする。
レオナルドは、「どこかに行ってお前をずっと見ていたい」
というようなことを言う。

こういうシーンではなかったよね。原作は。まるっきり違うということはないけれど、けっこう愛情表現が変更されている。

中山優馬の美貌は重要な役割を担っている。
どういうことかというと、レオナルドはこの作品中では始終興奮していて人間性を伺い知れるような言動がない。やったことと言えばせいぜい妻子を打ち捨てて他人の花嫁を連れて馬で逃げたことくらいで、おおよそ生産性がある人物ではない。金儲けもへたくそで、昔の彼女に結婚祝いでもらった家や牛にも文句を言うような、はっきり言って男として、いや人間としての価値ゼロなのだ。
でも、中山優馬は激しく動かず、ただ美しい怒りとして立っている。

そして花嫁が彼にあなたは美しいと言わずにいられないそのとき、レオナルドではなく花嫁こそが誰よりも美しいのだ。

さて、処女の話はしたので、次は疑問の表側、A面に戻って、「この人たちなんで結婚しなかったんだっけ?」ということなのだけれど、それが結局のところ謎なのである。
花嫁は金持ちの家、レオナルドは貧乏で格差があるとはいえ、3年も付き合っていてお互いに離れられないのだったら、そのとき駆け落ちしておけば、どんなに反対だといってもさすがに殺されるということもなかっただろうし、花嫁は一人っ子で他に跡継ぎもないのだから父が折れて結婚を許し、だれか迎えをやるだろう。

そもそもそれが現代人の(そして都会人の)感覚であって、その当時のスペインの片田舎で選択肢のない人生を送る人々にこんなアドバイスをしようものなら刺殺されるのはレオナルドではなくて私だろう。

この時代による感覚の違いばっかりは、演技力や演出や翻案でどうにかなるものではないのだな、と今回は大きな学びとなった。
今となってはこの感覚の乖離の大きさで、彼らの人生観を推し量ることしかできない。

さて、冒頭で血の婚礼は一番短い文字数で説明すると『結婚式当日に花嫁が過去の恋人と逃げて花婿と恋人の両方が死ぬ話』だと書いた。

もう少し長く書くのなら…
血の婚礼はスペインのアンダルシアの農村で生まれ育った男女が狭い人間関係と先祖代々の土地への執念に縛られながら持て余した情熱でナイフを振るい、土に血を流す物語である。

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