スコット・フィッツジェラルド「残り火」/読書感想文
こんばんは、玉手箱つづらです。趣味で小説を書いておる者です。
先日フィッツジェラルドの短編小説、「残り火」を読みました。
ちょっと前に短編集を買ってきまして。よく分からんままに2冊ほど。
えっと……「365日1ページずつ読むと世界の教養が身につく」みたいな本あるじゃないですか。あれを2ヶ月くらい読んでたんですよね(1年読め)。そこでね、フィッツジェラルド紹介されてて(たしか「現代編」)。
フィッツジェラルドと言えば、有名なのはたぶん「グレート・ギャツビー」かと思います。僕自身むかし大学の課題でそれを大急ぎで読んだことがあった。んですけど。まあ正直そんなに関心なかったんですよ。ほんとに急いで読んだ、なんなら読んでない、ってかんじで(読め)、今ちゃんと読んだらまた違うのかもしれないですけど。けど。その時はまあ、ふむ……みたいな感じでお別れしたわけです。
それで数年後のつい最近、上記の、紹介されてるの読みましてね、なんとなく思ったんです。
フィッツジェラルド、なんか俺の認識より遥かに、強い作家っぽくね……? と。
完全に主観であれなんですけど、なんかこう、普通の過去の作家より1スケール大きいような、人生のベスト盤に入ってきそうな、そんなオーラを感じ取った……ような……気がして……。
それでとりあえずタイトルで好きそうなの選んで、2冊買っちゃって。2ヶ月くらいかな、積んでたんですけど(読め)。
読みました。短編集『マイ・ロスト・シティー』より「残り火」。村上春樹さん訳です。
よかったです。よかったなあ……って気持ちが溢れて、ネタバレ有りで感想を垂れ流したくなって、ここに来ました。
というわけで、前置き長くてすいません。
以下「残り火」感想です。ネタバレガッツリします。よろしくお願いします。
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まずはあらすじをば。
舞台はアメリカ、20世紀の頭のほう、大衆向け小説家のジェフリィと、魅力的だけど売れなかった舞台女優ロクサンヌとの結婚から物語は始まります。
2人は1年ほどホテル暮らしの放浪生活を楽しんだのち、郊外に新居を構えます。
ご近所付き合いも普通にあり、夫の親友を新居に招いちゃったりもしつつ(余談ですけどこの親友、何日か泊まっていってました。こののんびりした時代?のかんじ、いいなあ……)、もちろん夫婦も円満。幸せな暮らしをしておりました。
僕の読みかたが間違ってなければ、ジェフリィには少し精神不安定らしいところがあって、ちょっとだけ不穏なかんじが顔を覗かせたりもしましたが、それでも全然、2人は幸せに暮らしていたのです。
しかしある日、ジェフリィの頭の血瘤が破裂してしまって、状況は一変します。ジェフリィは、死にはしなかったものの意識を失って、いわゆる昏睡状態になってしまいます。
ロクサンヌは意識のない夫を懸命に介護し、疲弊していきます。
以前に新居を訪れていたジェフリィの親友ハリーは夫婦の様子を心配して、シカゴの自宅から彼らの家まで、たびたび足を運ぶようになりますが、一方で彼も妻との家庭関係に問題を抱えていて……。
……とまあ、大筋はこんな感じです。
先に言っておくと、ロクサンヌとハリーの背徳的ラブロマンス、とかそういうのではないです。全然違うのに、僕の書きかたがそういう話のやつじゃん……ってなってしまったので、早めに否定しておきます。
ロクサンヌもハリーも、それぞれに疲弊して、たしかに哀しみに暮れるんですけれど、それに潰されてしまうのではなく、かといって克服するのでもなく、ある種の「慣れ」のようなものでゆっくり顔をあげていく……といった小説だと、僕は読み取りました。
それで、この小説の何がいいかって言うと、かなりボヤッとした言いかたになっちゃうんですけど、書きかたが……いいんですよね……。あまりにもボヤッとしてますね。「筆致」とか言えばいいのかな……わからん……。
エピソードを1つ2つ紹介しようと思います。
結構本気のネタバレというか、かなり大事なとこを紹介しちゃうので、引き返すなら今だぞ……。
ジェフリィがまだ健在だった頃、ハリーが初めて新居に来た日の話なんですが、ロクサンヌがビスケットを焼くんですね。なんかお料理ができる人に教わったの!とかなんとか言って。ジェフリィとハリーが図書室でお喋りしてるとこに焼きたてほやほやのビスケットを持ってきて。
でもこのビスケット、見た目はいい感じなんだけど味が……ってかんじなんですよ。2人の反応が芳しくない、ロクサンヌはすぐに気づいて、自分も食べてみて、何だこりゃ……ってなるわけです。
2人はロクサンヌをフォローしようとして、ハリーがいや、まあ、装飾性には富んでますよね、みたいなことを言って(ハリーお前それ嫌味一歩手前ぞ……)、ジェフリィがそれに乗っかるわけです。
「そう、その通り。装飾性に富んでいる」
「いい使い途があるんだ、ロクサンヌ。これを壁飾り(フリーズ)にしようよ」
……え?って感じなんですけど、こっちが呆気に取られてる間にジェフリィはもうその手にハンマーと釘を持っているんですよ。で、ロクサンヌが軽く引き止める(そこまでのハイテンション夫婦ではないわけです)も止まらず、気づけばビスケット12個がズラリと打ち付けられている、と。
違うんです。ここをピックアップしちゃったら終始このテンションかよ……ってなるのは当然なんですけど、違うんです。このテンションなのはここくらいなんです。普段はもうちょっと静かな小説なんです。
思うにここは、ジェフリィはちょっと躁っぽいとこがある、って描写なんじゃないかな、と僕は感じていて。
ここほどじゃないにしても、ジェフリィは結構いつも明るいんですよね。でも一方で頭痛持ちらしき描写もあって。最終的にそれは脳の血瘤が破裂するって展開に回収されていくんですけど、一方でジェフリィの精神の不安定さをにおわせる働きもしている、のかな、と僕は思う。
そしてそういったもののどこまでが脳の異常由来なのかというと、これはハッキリと書かれていない。このエピソードのあと、もう少しジェフリィの精神の危うさが出ちゃうエピソードがあったりもするんですけど、それについても、脳に病気があったせいで、とは明言されない。
ジェフリィがちょっとおかしかったのは全部血瘤のせいだったんだ、とも読めれば、ジェフリィが元々危うい精神を持っていて、たまたま脳に血瘤を抱えて、それが破裂した、とも、その両方・中間とも読めるわけです。それも、どれもそんなに無理なく。
まー簡単に線引きできるものじゃないしね、と言えばそれまでなんですけど、でもここを単純化させずに書くあたりに、品を感じたりするわけです。
人間の精神に対する丁寧さ、と言ってもいいかもしれません。
ぼかすからいい、とかそういう話ではなく、ここをぼかすのは、なんかわかる、って話なんですね。あるべき慮りがあるのを感じる。なあ。って。
話逸れましたね。ビスケットの話の続きです。
続くの!?ってなると思うんですが、続きます。
ジェフリィが倒れてしまって半年、ロクサンヌは介護の日々です。
一方、ハリーは妻キティーとの仲がもう崩壊寸前。キティーは、まあ控えめに言ってあんまり家庭や子どもを大切にするタイプの人ではないんですね。子どもの服はボロ、家もどちゃ散らかり、なんなら自分の部屋着もボロ、だけどクローゼットの中の沢山のドレスは綺麗。ほんとはそのドレスを着てまだまだ遊び回っていたい、ってかんじなわけです。
んー……まあ、ね、母親なら、奥さんなら、家庭をちゃんと管理しろとか、そういうの言う気はさらさらないんですけど……まあ、結婚とかあんまり、向いてないかんじなんですよね……。だから本人も不満が溜まっていて、ハリーもまあ、結構な優男なんですけど、好き勝手されるからやっぱり不満はあるわけで、ちっちゃな衝突を繰り返した末、この日キティーは子どもを連れて家を出ていっちゃいました、と。
傷心のハリーは、フラフラと親友夫婦の家へやってきて、しょぼんと庭の椅子に腰掛けます。もう見るからに凹んでいる。
ロクサンヌも心配して、隣に座って、どうしたの?とか聞くわけですけど、ロクサンヌはロクサンヌでこの日はそれどころじゃない日なんですね。神経の専門で権威のあるジュウィット先生なるお医者さんがもうすぐ家に来て、ジェフリィを診てくれることになっているんです。この診断でジェフリィの症状はどういうもので今後どうなるのか、助かるのか、助からないのか、そういうことが分かるかもしれない、だいぶ重めの局面なわけです。
それを知ったハリーは、申しわけない、そんな大変な日だとは知らなかったものだから、来るべきじゃなかった、みたいなことを言って帰ろうとするんですが、ロクサンヌはそれを引き留める。
…………ちょっと脱線かもなんですけど、ここ、むちゃくちゃ好きなので引用していいですかね。僕ここの文章がこの小説で一番好きなんですよね……。
「お座りなさいな」と彼女は言った。
ハリーは戸惑った。
「いいからお座りなさいよ、ハリー」彼女の優しさがあふれでて、それはハリーを包んだ。
「何かあったのね。顔が真青よ。いま冷えたビールでもお持ちするわ」
堰が切れたように、ハリーは椅子の中に崩れおち、両手で顔を掩(おお)った。
「僕には女房を幸せにできないんだ」彼はしぼり出すようにそう言った。「ずいぶん努めてはみたんだ。実は今朝も朝食のことで少し言い合いをしてね──僕はここのところずっと街の食堂で朝食を食べていたもんだから……それでつまり……僕が出勤したあとで女房のやつは家を出たんだ。ジョージを連れて、トランクいっぱいにレースの下着を詰めて、東部の母親のところにね」
「なんてことを!」
「いったいどうすればいいのか──」
その時、砂利を踏みしめる音とともに、一台の車が角を曲り、車寄せにその姿を現わした。ロクサンヌの口から微かな叫びが洩れる。
「ジュウィット先生よ」
「じゃあ、僕はこれで──」
「いいえ、お待ちになってて」放心した様子で、彼女はハリーの言葉を遮った。ハリーには自分の問題がロクサンヌの乱れた心の表面で、既に命を失っていることがわかった。
中央公論新社、スコット・フィッツジェラルド『マイ・ロスト・シティー』(村上春樹訳) 収録作「残り火」より。69~70頁。
引用とか100年ぶりにやったから出典の書きかたグチャグチャかもしれない。
まあそれは置いといて、どうですか。よくないですか。こんな綺麗に整った文写したあとに自分のダラダラした文で続けるの、とてもつらい。
まあ、文章自体の感じの参考にもしていただきつつ、僕はこの特に最後の部分がむちゃくちゃ好きで。ロクサンヌは優しいからハリーのことだって心配していて、立ち去ろうとするハリーを尚も引き留めているわけですけど、それでも……まあ、こういう描写になる、と(元の文が完璧すぎて言い換えられなかった)。
ロクサンヌが先生の来るほうを見ていてもうハリーを見ていない絵面も、「いいえ、お待ちになってて」の声色も、鮮明に想像ができる。ハリーの気持ちも、ああ、こういうことある……ってレベルでしっかり分かる。
この場面をこの温度感・静かさで書くの、すごいと思うんですよ。ロクサンヌがひどいでもなく、ハリーが必要以上に傷つくでもなく。かといってそんな野暮なフォローに文量はかけずに。
スゥーっと……。
……好きだわ。
で、引き留められはしたものの、ロクサンヌはお医者さんと一緒にジェフリィのとこへ行って、それにまさか同席するってわけにも行かないので、ハリーは図書室でボーッとしてるわけです。
ボーッと、奥さんのことなんかを考える。これはもう、どうしたって離婚は避けらんないだろうな、みたいなことを。きっとすぐ再婚するだろうな、みたいなことも。そんで、新しい旦那とイチャつくんだろうな、なんてことを考えて……「やめてくれ!」と。
まあなんというか、正直この辺の気持ちは僕にはよく分からないんですけど、やっぱ好きな気持ちはそんなに簡単には割り切れないようで。ハリーは悲しむわけです。
うぅ〜…………!!ってなって、昔のこと、仲睦まじき頃のアレコレなんか思い出しちゃったりして、ううぅ〜…………!!!ってかんじなわけです。
それで一頻りうううううしたのち、ハリーはある1つの感覚に襲われます。即ち、空腹感です。
キティーが家を出てしまったことに気づいたのはお昼時で、なんやかんやハリーはお昼を食べてなかったんですね。
ついに来てしまった家庭崩壊の現実と、迫りくる巨大なハラヘリ。それらは重なるような重ならないようなかんじでハリーを追い詰め、ハリーの感情はグチャグチャになり、ぼんやりぼんやりし始めて……。
そうだ、あれがある。
そんなことを思って、ズポッ!と。引っこ抜いて。何を? 釘を。
そして、バクッ!と。食べちゃうわけです。半年前、ジェフリィが壁に打ちつけた、あのビスケットを。
一方その頃、お医者さんの診断がくだり、ジェフリィはもう回復の見込みはないことが分かります。ロクサンヌはもう、とても誰かに会えるような状態ではなくなってしまって、看護師に伝言を頼みます。夕飯は用意させるし、客室の用意もできてるから泊まっていって、みたいなかんじです。
ハリーは、まあこれは普通に断って、いえ、まだ電車もあるし帰ります、と立ち去ろうとして……最後にバクッ!
ラストワンビスケットを、看護師さんの目の前で食べて、帰る、と。
なんていうか、なかなかのインパクトで、カタルシスがあるような気もするんですけど、それがどう、っていうことは特にない静けさも同時にある──なんとも言い難い、ただ魅力的ではある、みたいなシーンなんですよね。
実際、小説的にも一番の見せ場の1つだろうと思います。
それから10年ほどが経って、ジェフリィは息を引き取ります。
ハリーはもうとっくに離婚していて、まあそれでも、ハリーとロクサンヌは良き友人のままで。
2人ともそれぞれに、疲弊ののちに大きな喪失を迎えて、しかしそれでポッキリやられるでもなく、生きていて。
ロクサンヌはこの家を下宿にしてやっていこうかな、なんてことを考えていて、それを聞いたハリーはなんか寂しい気もするなあ、なんて答えたりして、そのまま思い出話をして、色々と懐かしむわけなんですけども。
そのなかで、またビスケットの話が出てきます。曰く、そう言えば看護師さんからあのビスケット全部食べたらしいって聞いたわ、と。そうして言うわけです。
「あの夜はひどく参っていたんだけれど、看護婦さんからビスケットの話を聞かされた時は思わず笑ってしまったわ」と。
僕この台詞もむちゃくちゃ好きで。
なんて言えばいいのか……。その、この関係のなさがいいんですよね。ジェフリィの優しさが種になって〜……みたいな感じじゃなくて(その読みする人がいても否定はしないですけども)。
オイオイってテンションでジェフリィが打ちつけたビスケットを、自分の問題で苦しんでなんか色々メーター振り切っちゃったハリーが引っこ抜いて食べた──そんな事実が、一番つらかったときのロクサンヌを、ほんの少しだけ、救っていた。っていうこのかんじが。すごく好きで。
本当につらいところからもう一度立ち上がるってときに、それはもちろん、直接的に支えになって、救いになって、癒やしになってくれるものものというのも必要になってくると思うんですけど、一方でこういう、関係ないとこから来る、ちっちゃくて、なんなら意味も分からんような喜びが、力になることもあるのかもしれない……なんて、書かれてはいないし、そういう意図で組まれた話か?って言われれば正直わからんのですけども、なんだかそんなことを思ったり。
あとは単純に、こういうよく分からんものが小説の背骨になる、っていうのが個人的にめちゃくちゃ好みってのもあったりします。これはこれの象徴ね、っていう約分的整理がつききらないような……。ちょっと謎の存在感のアイテム、あるいはエピソード……。説明難しいな……。
このあと、釘の穴は埋められたりせずにそのままになっているって説明があって、それは結構明白に「ジェフリィの喪失はなんらかの補填によって既に克服された、というわけではないこと」を象徴していると思うし、それはそれで全然いい、なかなかキマってるところだと思うんですけど、何もかんもがこういう風に整理できたらそれはそれでなあ……っていう気持ちがある、らしい。僕には。気づいちゃった。
みたいな話です。
はい。というわけでね。
主に結構メインめのエピソードを参照に(こう書くと酷い)(参照にメインを使うな)、「残り火」の紹介&感想を書かせていただきました。
気になったら是非とも読んでもらいたいです。紹介してない部分や、僕には拾えなかった良さもたくさんあるので。
いや実際読んだ直後は、よかった、よかったけど、何でこんないいと思ってるのかわからない。みたいな状態だったんですよね。ここに書いたのはそこからどうにか整理できた良さ、の一部、というか。
紹介したエピソードは結構派手な部分ですけど、全体で見たらもっと静かで、綺麗な文体が前面に出ている小説でもあります。
クールな小説なんですよ。ビスケット打ち付けたり引っこ抜いて食ったりは、この小説の中ではかなり特異な部分で…………とだけ、今更ながら付け足させてください。
フィッツジェラルド、まだまだ測りかねています。なんというか、よさがさりげないというか。
まだまだ探りたいな、と思ったので、今度は長編を読もうかな、と思っています。
このニトリのふかふかクッションでくつろいでおるのは「夜はやさし」という小説の単行本でございます。
今回読んだ「残り火」を収録した短編集は、最初村上春樹さんの「フィッツジェラルド体験」なるフィッツジェラルド紹介兼フィッツジェラルドに触れてきた自身の色々、みたいな文章(すごくいい)で始まっているんですけど、その紹介のなかでなんだか存在感があったのがこの「夜はやさし」だったんですよね。
最初に読んだときはそうでもないんだけど、10年後とかに愛おしくなる小説、らしいです。フィッツジェラルドと同年代に活躍して交流もあったらしいヘミングウェイも、同じようなことを言っていたらしいですね(最初は結構ダメ出ししたらしいことが書いてありました)。
そんなん言われたらなんか気になってしまう……ってことで、そのうち欲しい本としてメモしてたんですけど、「残り火」読んで、フィッツジェラルドともっとガチでやりあいたいなと思いまして……結構お値段張るんですけど……勢いでポチってしまいました。
というわけで、当面の目標はこれを積まないことです。よろしくお願いします。
なんか締まらないけど、以上感想でした。こんな長文にお付き合いいただきありがとうございます。
最後に今回読んだ本とかを貼っときますね。
おやすみなさい。
ついでにこれも
ついでのついでに……読んでくれたらむちゃくちゃ喜びます。