「成長」を拒んだわけではない、チャイコフスキー
天才とは何だろう。
描くべき対象を獲得している者、描かざるを得ないテーマを持たされている者、そして、それを表現する手腕、技法を持っている者
そう考えると、チャイコフスキーも天才の一人であったと言えるかもしれない。
ベルリオーズの幻想交響曲を演奏することになったため、かなりまとまった数の同曲を渉猟しまくって聴いている。そしてベルリオーズは本当にロマン派の時代の作曲家と言えるのか、という(あまり重要でないが妙に関心のある)課題が自分の中で渦巻いている。だがそれが今回の話の本筋ではない。いずれにしても、その流れで「ロマン派」とでもいうような時代の管弦楽曲も立て続けに聴く、ことになっているのだが、中でもチャイコフスキーの活動時期の経年による「成長のなさ」にはあらためて驚かされる。逆に言えば、彼は登場と共にすでに一定の完成の域に達していたかのように聞こえてくる。私の未熟な耳のなせる技なのだろうが、彼の交響曲は第1番からすでに音楽的成熟に達しているような印象があり、後に愛好者の多い後期の第5番や第6番で披露されるようなチャイコフスキー語法のほとんどが、すでに彼の初期作品中で獲得されているような印象を持つのだ。
ひるがえって、ベートーヴェンの作曲年代ごとの作風の変化は、私のような未熟な耳にも明らかな成長の道程として辿ることができるのであるが、チャイコフスキーには(ほとんど)それがないように感じられる。どうしてそのようなことが起きたのか、貧困な知識の範囲内で考えてみた。
想像するに、ベートーヴェンのような「西洋音楽の古典時代」の只中に生まれた人間にとって、新しい作曲語法発見の余地が多く残されており、彼はそれを発見し進展させることができた。つまり苦悩(努力)を通していくつも語法を自ら発見し、それを発展させることができるほど、まだ人類未踏の領野が残っていた。もちろんそのような道がこの観念的宇宙の中に存在することを「発見」したのは、ベートーヴェン自身であるだろうし、時代が彼を作ったという言い方はあまりに一面的すぎる。積極的に彼が時代を切り拓いたのに違いはなかろう。だが、元素の周期表を喩えにすれば、ベートーヴェンの時代にはまだ発見されていなかった「元素」がたくさんあったために、それらの存在を予想し、実験によって存在(音楽としての成立の可否)を証明することができたのだった。そう想像できるように思う。
チャイコフスキーはその点で言うと、ベートーヴェン死後の短い2、30年くらいの間に「周期表」中の元素は、あらかたもう発見され尽くしており、完成された周期表の元素を元に、いろいろな化合物(ハーモニー)を作り出すだけで良かったのだ。つまりチャイコフスキーは試行錯誤に時間を費やす必要がなく、ベートーヴェンの死後までに発見され試されたあらゆる作曲技法の中から使用可能な(ハーモニー的に許容可能な)理論を選び出し、あとは実践としての音楽を作るだけだった、のではないか。チャイコフスキーは音楽界への登場と同時に驚くべき作品の完成度を見せ、こう言っては何だが、生涯ほとんど「成長」することなく、青年期に築き上げた方法論で集中的に音楽自体を作り続けることができた。そのために彼独自の完成度の高い「変わらない様式」を堅持することができたのかもしれない。と思えてくるのだ。
その後の作曲語法上の「発見」や様式の変化は、十二音技法やら音列技法やらの登場によって、19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて大々的に生起した。例えば、ちょうどその激しい変化の時期に作曲活動をしたトマス・ド・ハルトマンが、生涯かけてこうした語法の発見に呼応する形で作曲様式を変化させていったことは、まるでベートーヴェンの音楽的成長とも似たところがある。ただ、ド・ハルトマンのそれは単に時代精神の変遷の記録に留まらず、果物が爛熟の後に腐って落ちるような過程を含む、植物のライフサイクルのような様相を呈していることが興味深い。こうした「腐敗」を感じさせる「音楽の死」の後にやってくるのは、ある時期のストラヴィンスキーやプロコフィエフ、そしてプーランクに代表されるような新古典主義なのだが、ド・ハルトマンは残念(賢明)なことにそうした反動的復古主義とも呼べるムーブメントにコミットしなかった。彼には(グルジェフとの共作で知られる類の)民族音楽の収集とピアノ作品としての記録という別のライフワークがあったからであろう。チャイコフスキーの話をしていたつもりなのに、すっかり脱線した。
ここで書いていることが大雑把な議論であることは言を俟たない。チャイコフスキーがまったく生涯音楽的に成長しなかったという断じ方も大雑把すぎるだろう。これはあくまでもチャイコフスキーの音楽を聴いていてふと感じた妄想の類を文章にしただけのものだからだ。
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