『花吐き hanatsuki』 鑑賞の備忘録
公私色々あってすっかり遅くなってしまったが、先日3月23日(火)の成城のアトリエ第Q藝術で行われた「プロジェクトなづき」の最新の催し物、「花吐き Hanatsuki」を観た時の感慨を自分のために備忘録的に残しておこうと思う。したがってこれは演劇評とか、舞踏の評論とかとは全然違う。また、これについて書くことに少々難しさがあるのは、自分が完全に「客」ではなくて、一定程度「なづき」にこれまで関わってきたからでもあり、控えめに言っても「内輪」みたいな立場でもあるからなのだけど、今回の作品についてはまったく何も関わっていないし、一方的に享受する側としてそのパフォーマンスを観る立場だったので、純粋に客であると言い切って感慨を語ることは、「まっぴらごめん」で許されるだろうと思う。かつ、「個人的意見なんだけど・・・」云々の枕も無用で書くことが許されるだろうと、願う。自分の書く文章について、「個人的・・・」なんて当たり前のことすぎて今更なんで断る必要がある?(以下、敬称略)
さて、今回の作品は分かりやすかった。こんなに「わかって」しまっていいのだろうかと遠慮を感じるくらい自分にとっては親しみが感じられる内容だった。平明であるとさえ呼びたい。これは明らかに褒め言葉だ。というより、ゲーテがその代表作のひとつである『ファウスト』で描いた世界が眼前に展開されたのが「花吐き」だった。だが「分かりやすかった」と断定することには、それなりのためらいもなくはない。分かりやすいことは果たしてこのグループにとって「ありがたき」ことなのであろうか? 自分は内輪の末席のような立場(つまり壱楽師の立場)で「なづき」にこれまで関わってきたのであるが、お世辞にも「うんうん、よくわかる、その気持ち、僕の一部とおんなじだよ〜」とか言えない難解さが立ちはだかっているのが、この一連のプロジェクトであったからなのだ。これは褒めているわけでも貶しているわけでもなく、自分が感じるママをそのまま書いているのだ。良いとか悪いとか、そういう次元の話ではない。
しかるに、この作品については、「わからないところがない」というくらいだ。月読彦がやましんに背負われて(いや、逆だったか?)登場した、その冒頭の箇所からそう感じたのだ。というより、「わかる」と感じてしまう自分に狼狽しながらこの作品をみる羽目になったのだ。やましん演じる〈やましん〉の役は、そのまま自分(あるいはほとんど同程度に近い未来の自分)そのものであった。「余命宣告された孤独な男」というチラシにも書かれた触れ込みのせいもあるかもしれない。生きる者はすべて「余命」こそわからないが、死刑は宣告されている。いつ行われるかわからない処刑ではあるが。「余命宣告」にはそうした死刑宣告以上の意味はないと思えた。
こう言ってはやましんに対して失礼かもしれないが、彼は老いていく(死を間近に感じる)男の性そのものの体現者であり、貝ヶ石奈美は、今が盛りと花が満開になっている武器のような「若さ」と、その魅力を前面に押し出し遠慮するところのない女の性そのものの体現者として、分かりやすく出現する。そして、その若い魅力は、それを強調せんばかりの遠慮会釈のない演出と踊りによって、初老に差し掛かっているわれわれ見る者、男性の性に作用する。つまりなぶりものにされるのである。やましんと貝ヶ石の二人によって翻弄される男の性が入念な時間を賭けて演出される。そしていつ刑を執行するかわからない死の神としての月読彦の奇っ怪な存在によって、その性(生)の無常がつねに暗示されるのだ。実にこれ以上ないほどわかりやすい構造ではないか! これぞ、普遍的題材のひとつと名付けていい題材を正面から扱った作品であると思えるのだ。素晴らしいことだ。
この作品を見終わった私と同年代の男性諸君は、近くのコンビニから買ってきたアルコホル飲料を飲みながら、この作品を見終えた感慨を第Q藝術の庭で吐露しあった。「永遠に女性的なるものに引き上げられる」ファウストではないかもしれないが、男の性であるわれわれ男性観劇者は、ほぼ等しく、貝ヶ石の機能的なまでに鍛えられた舞踊される美しい女の性(身体)によって弄ばれていたことを実感した。
表現のいくつかの具体的部分について何かを書くとしたら、私にとってもっともツボだった箇所は、やましんと貝ヶ石の二人が付かず離れずの位置で鏡のように両手を合わせて踊った場面だ。このシーンの美しさには感涙さえ覚えた。この「付かず離れずの距離」こそ、神経のシナプス構造として自分の目の前には現れた。この付いて離れている距離の間を神経伝達物質が行き来する。そう生物学の授業で習った覚えがある。そしてその見えない精妙なる摩擦が、ある一定の段階に達したとき、劇的な変化が起こる。これはまさにエクスタシーに至る(お上品に言えば)男性が「引き上げられる」場面なのだ。
そうした一定以上の刺激物の伝達事故のようなものが川津望の短く甲高い声があちこちで暗示する(おそらくこれは譜面になっているような精確な楽曲の一部なのだ!)。そして方波見智子の打楽器が、この普遍的物語を「始まりがあって終わりがある」円環の最初と最後をつなぐ非常に重要な役割を担っている。物語を通奏するのはメロディーを思わせるタムタムの最初の動機なのだった。実に心憎い演出である。まるでワーグナーのオペラだ。そしてこうした構成を作り上げたのが、即興に大きく依存していると語ってくれた米倉香織の音楽なのだった。おそらく繰り返される稽古の中で即興的に構成された部分もかなり多いと推察されるが、その即興的な取り組みが到達した文学的な境地に拍手を送りたい。実に愛でたい出来事が達成されたのだった。
[追記]今回の演し物についてはもっと語るべきことがある。やましんのパフォーマンスそのものの鬼気迫るクオリティーについても、特記し始めればかなりの字数になるだろう。また方波見の演奏そのものについても同様だ。
しかし何より、今回印象深かったのは川津望の「立ち位置」だ(座っていたのではあるけど)。いや、今回だけが特別であったのではないのかもしれないのだが、今回それが印象深く記憶されたのは、彼女が明瞭な(おそらく)自覚を以って黒子のような役割に徹しているかに見えたことだ。彼女のそのありようは、ステージ上で主たるキャラクターを演じるやましんと貝ヶ石という男女のペアに対して、月読彦の演じる明らかな〈死の神〉という、(ゲーテ風に言えば)メフィストフェレス的な「アンチ・ヒーロー」が絡むという2.5人いる登場人物を過不足なく生かすことを可能にしていた。川津の存在感はヒーロー(もとい、ヒロイン)を張ることができるだけの性格俳優的なプレゼンスや音楽家としての卓越した表現手段を持っているにも関わらず、そうした彼女自身のキャラクターを抑制的にしか利用していないように見えた(後から思えば、だ)。これはある意味驚くべきことで、彼女は今回全体を作り込むための脚本家、ならびに演出家の役割に意識的に徹したのではないかと思わせるものであった。この重要な事実が直ちに言語化できなかったのは、彼女のこうした意図が成功したからなのかもしれない。それが観衆の一人である自分に明瞭に意識化されてしまうのだとすれば、それは彼女の意図が成功したとは言い難いわけであって、全体を生かす演出の効果にとっては、後から功を奏したことが遅ればせに理解されるくらいが成功を証しているような気がするのである。これを読んで川津が喜ぶかどうかは、未知だが、ここは正直に書くのが筋であろうと信じる。