悟りは、簡単なこと:回帰
こんにちは、領です。
ふと一番初めに書いたブログ記事のことを考えました。『悟りは、とても簡単なこと』という記事です。悟りは、とても簡単なこと - 私とは何か?と問うことに気付いている「私」とは何か? (goo.ne.jp)
単純に、目をつぶったときに分かりやすいだけで、目を開けている時でも不動の焦点に気づくことはできます。悟るということは、この不動の焦点を常に自覚する状態になることです。人間が「見ている」のではなく、この不動の焦点が「観ている」という自覚です。
「今、自分が自分と感じている自分」「私」「不動の焦点」「第三の眼」など、初期は、このように説明していますが、現在は「在るものを有と認める作用」「在るものを在らしめる作用」などとしています。
悟りは、とっても単純なことだと思います。
人間(五蘊)が無に潜在し滅すると、「第三の眼」だけが残されます。
むき出しの「第三の眼」そのものの状態です。
人間(五蘊)が無に潜在し滅すると、無限に広がる原初のエネルギーの状態をとります。その状態の場の全てが「第三の眼」であって、「第三の眼」が遍在する構造になります。
人間の「第三の眼」は、人間が滅すると、もともと遍在していたことを理解します。(理解するのは人間の状態のときです。人間が滅するのは、人間にとって刹那であり、すぐに再生展開します。)
遍在する「第三の眼」が唯一として存在することも理解します。
「第三の眼」は一個二個と数えられる性質の物ではなく唯一無二です。そこから「全ての人は自分」と理解します。
唯一・偏在の「第三の眼」が全ての人間に宿っています。自分の存在に気づいているなら「第三の眼」は宿っています。
「気づき」は、ただ唯一のものであり、全ての人に共有される構造になります。「全ての人」というのは、現在過去未来平行世界の全ての人のことです。たった今、全てを「第三の眼」は、平等に観照しています。
これらのことを一気に理解します。
厳密にしておきたいことを書きます。
第三の眼は、無次元の点の物理的性質です。
第三の眼の「自己が在って観ている」「気づき」という感覚は、「現象を確かに有で在ると認める」物理作用のことです。人間が想像するような「眼」ではありません。
原初のエネルギーの状態から、インフレーション、ビッグバンをへて素粒子になって高度に組織化され人間が存在し、人間の認識が抽象度を上げて原初のエネルギーの状態に回帰する。その回帰が悟りです。
無限に有と認識する原初の状態(無と無限)
素粒子レベルの範囲を有と認識する状態
高度に組織化された人間の範囲を有とする状態
人間のメタ認識範囲がさらに高度化し思考が沈静化すると原初の「無限に有と認識する」という状態に近づいていく、酷似していく・・・そして、原初そのものに至る。
この振動循環の在り方の「可能な現象」が全て存在します。「悟り」は振動循環の一部でゴールではありません。解脱は不可能です。
人間のために「悟り」があるわけではなく、振動循環の一部に「人間」「悟り」という現象が、必ずあるだけです。
人間がただの現象の一部にしかすぎないと思考しても、人間として存在することに喜びや苦しみを感じたりして生きます。私は、何も動じない人間になるなんてできません。
「悟った人は、心乱れず動じない、全てを平等に扱い偏らない。」
こういう性質は「人間という現象」が滅したときの状態であって、人が不動であることは不可能です。私なんて愚かで、自分勝手で、怒りっぽいです。
ここまでの思考も振動循環の一部にしかすぎません。絶対の真理は、振動循環という性質では表せません。
読んでくれた方、ありがとうございます。