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「宇宙の根源原理」について易しく説明する~世界の本質的なしくみ~(前編)

今回は「世界の根源原理」について、記します。
といっても理数系の語り口ではなく、文系・理系を超えたさらに本質的な視点から記すものです。わたしが半生をかけて至ったものです。

もちろん完全には壮大なものとなってしまいますので、非常に平易化したものを提示します。

※わたしの執筆物や法話で頻繁に使用しますので、これを理解しておくと色んなことの理解が捗るかと思いますので、ご覧ください。



導入/はじめに

宇宙の根源原理を知る意味

宇宙の根源原理などと言われて、「壮大すぎてそんなものが人生に役立つわけでもないであろうし結構…」という人もいるかもしれない。

ところが全くそうではないのである。

根源と派生

ものごとは「根源」と「派生」によって存在している。
例えば、身体は色んな臓器や骨…などで存在しているが、これは遺伝子(や受精卵)がその根源にあって、これが分化・派生したことで存在しているものである。また他には、子供は親という根源があり、そこから派生して生まれてきたものである。

このようにあるゆるモノコトで「根源と派生」というものが存在する。「基本と発展」、「基礎と応用」、などということもこれと同類のことである。

この「根源と派生」というものにおいて言えることは、根源とは「派生において“通底するもの”を持っている」ものであり、「根源を知れば効率的に派生を知ることができ、根源のことができれば効率的に派生のことができる」というような関係性になっているものである。
根源によって派生がある。親がいて子があり、その子は親の要素から派生して出来てきたものであるように。

そこで、実はあらゆるモノコトを深く観察していったときには、必ずその「根源」に話が向かっていくものであり、根源が分かれば派生もわかってきたりして、それはすなわち全体がわかってくるのである。

そこであらゆるモノコトを深く観察していくと、「=根源を訪ねていく」ことになるわけであるが、そのまた根源を訪ねていくと、その“最も根源”としてあるものが「宇宙の根源原理」であるということが見えてくるのである。
すべてのモノコトにおける根源の、そのまたすべての根源である。

あらゆるモノコトをもし本当に深く理解したいならば、それはもう必然的に「すべての根源=宇宙の根源原理」ということがその最も重要な知となるのである。また、あらゆるモノコトの本質を“説明しよう”とすると、必ず全ての場面において「“宇宙の根源原理”を説明する」ことが必要/鍵となってくるのである。

そこでわたしの執筆や法話では、いつもこの宇宙の根源原理という話が顔を出して、頻繁にこれを説示することになるのである。

そこでこれをまとめてここに説示しておくものである。


世界の根源原理(平易版)

1.「中→陽陰」

まず全ての根源から説明する。
世界の根源原理に「中と陽陰」ということがあることである。

1-1.中⇉陽陰

●陽陰的な二元によって成立している

宇宙には「“真反対の相対・二元的なもの”によって成立している」という事象が遍満している。

例えば、
・男女。わかりやすく自分そのものが父母=雌雄男女という真反対の二元的なものが融合して存在する。
・昼と夜。寝ていると起きている。
・親と子。大きい完成側と小さい未完成側。与える側と受け取る側。
・太陽と地球。天と地。上と下、右と左…。
・陽子と電子。プラスとマイナス。
キリなく“真反対の二元的なもの”を挙げることができる。
自分自身もまさに、二重螺旋構造に基づいておりそのようにしてある。

この正反対の二元のことは、古くから「陽陰」などと呼んできたりして、昔から語られてきたことではある。二元論などとも言われ、古典的な哲学として語られることが多いということも言える。
ここでは、そうした従来の議論以上のことを説示するものである。

●中から陽陰が展開する

そこでこのような「陽陰」といった、二元のものを眺めているとこのようなことに気が付く。
「それはまたさらにはどちらから、どこから生まれてきたのであろうか」といえば、「その陽陰のさらに以前の“中”とでもよぶべき状態から生じている」ということを見て取ることができる。

例えば、男女は雌雄以前の無性生殖=言い換えれば“中”性から。親子は一つの個体から。太陽と地球は一つの星間ガスから。陽子と電子は中性子から。といったように、「陽陰二元的なものは、さらに戻れば“一つの中性”のようなものから分れ出て生じている」例を沢山見いだすことができる。
つまり「中から陽陰が生じる」ということを沢山見ることができる。

そこでこれに該当する事例を見てみたとき、実に世界において本質的な存在や事象ばかりであり、この「“中から生じてくる”、“陽陰という二元”という原理がかなり本質的に世界に横たわっている」ということが直感される、といってよいと思われるのである。

この世界は「中から陽陰のようなものが分れ出て、その結合・組合せなどによって存在・成立している」ものなのである。

余談:物質界が何故/どのように在るか(物質と反物質)
さらに例えば。私たちは「物質というものがある世界(物質界)」というものを認識しているが、実はこの物質・物質界というものもまたこの原理の中にある。
(一般には周知されていないようであるが)最新の科学では、「物質というものは実は同時に“反物質”というものと共に生成される」ということが判明している。そもそも物質は物質としてだけ、いきなり存在したとか発生したというのではなく、物質の正反対に“反物質”というものが存在していて、「物質とその反物質以前のもの(=まさに中的なもの)が、物質と反物質に展開して融合したことで、物質/物質世界として存在している」ということが判明している。(この物質と反物質はぶつかると対消滅してしまう。)

これもまさに、「中と陽陰」ということが本質的な原理として世界に横たわっていることを支持しているものである。(余談終わる)


1-2.非対称から、陽陰に展開する

対称性の破れによる展開

そこで、次の重要な事実が、「何故、中から陽陰が生じたのか」という問題である。「中から陽陰が展開して、陽陰が存在する」わけであるが、今度はこれがどのような仕組みかということである。

そもそも「陽陰というものの真ん中として中がある」のであり、であれば“中は均衡的”で、そこから何故陽陰が生じてきたのかという論理はかえって見当たらなくなり、陽陰に展開したことについての原理が不明になる。

そこでこれは物質的な範囲について科学から判明した理屈を参考にすると、この物質と反物質の形成や、宇宙のはじまり(トンネル効果など調べられたい)について、「対称性の破れ」ということが判明してノーベル賞にもなり確かな事実としてもはや知られている。

これは、どういうことかと言えば、これを無理やり全ての正反対の陽陰的二元に同様の議論を出来るものと想定してもっと抽象的なモデルに変換すると、「陽と陰とは対称性が破れている=不均衡でもあるから展開する」といったことである。

●対称性の破れ(図式化)

わかりやすく図式化するとこのようなことである。

(A)均衡する対の部分=対称性
陽陰というものは例えば男女、左右などのように「対称」なものとしてまずは理解される。正反対ということを言い換えると「対称」というと言ってもよい。
そこで陽陰というものは、まずイメージされるのは正反対で「対称」である状態であり、シーソーや天秤で言えばその両端のようなもので「お互いに正反対の要素を持ちながら均衡する」ようなもの、あるいは「鏡合わせ」のようなものをイメージするかと思う。

(B)均衡しない対の部分=非対称性/陽勝陰負の理
ところが陽陰というものは実際にはそのような“完全に正反対で均衡する対称“ではないのである。
それを図式化によって分かりやすく表現するとこういうことである。AとBという正反対の二元的なものについて、そこに実は“鏡合わせで均衡する部分”と“むしろ鏡合わせではなく凹凸、一方向的な関係として対になっている部分”=“片方Aがもう片方Bに勝っている・食い込んでいるような部分があり(面積で見れば片方の量が多いとして理解できる)”、この両方によって“正反対の二元“というものがあるということが分かるのである。

(※もしこれが全て鏡合わせであれば、ある意味それは正反対ではなくなり単に同じものということになるし、また反対に全てが鏡合わせ均衡でないとすればそれは単に全く別物となってしまう。男女も例えば人という部分では同じでありながら、異なる部分もあることで、“正反対に対としてあるもの“になっているのである。)

そこで片方Aともう片方Bは、Aの方が大きいとか、Aの方が重いとかいったことになっていて、そういうことをもってAを“陽”といい、Bを“陰”として名付けたものであって、“陽陰”の語句にそもそもこの事実が表現されているのである。これを「陽勝陰負の理」と名付く。

そこで陽陰というものは、半分では「鏡合わせに均衡する部分を有し」ながら、もう半分では「陽が陰に勝っているというようにして不均衡な部分を有し」て、その「両方を有して存在する」ものであるということである。(もし、そうでないならば、同じものがあるだけとなり、一元ということになるだけのこととなってしまう。)


不均衡から展開する

そこで、この「鏡合わせの均衡部分だけではなく、一部については均衡が破れている」ことが、“科学上の対称性の破れ”ということ以上にさらに抽象化した原理として本質的にあるということである。
男女も親子も対称でありながら片面では対称性が破れてもいるのである。(左右などについても、手が片方の利き手があったり、心臓は左についていたり、自転公転も回転方向があったりと破れている。一つ一つ申し述べないが、よく観察すればすべて何かしらの形式が観察できるはずである。)

そこで「中というものが内包している二元は“対称性が破れている”から、⇒ここから均衡が崩壊するという仕組み」が備わっているのである。


「この宇宙のはじまり」についても、「対称性の破れ」があることで展開するということが言われている(宇宙のはじまりは未だ解明されていないので仮説の範囲を出ない)。

この「対称性の破れによる展開」という原理は、この物理学の分野においてのみ指摘されることではなく、そもそも「全ての二元について展開発生することの本質的原理」を示唆するものだと説示するものである。


◇融合においても、陽勝陰負

ここでもう一つ説示しておきたい。今は対称性が破れているから展開するという「展開における陽勝陰負」を示したが、「融合における陽勝陰負」をも示す。これは「陽と陰が融合するときには、陽が勝っている状態として世界が成立する」ということである。

例えば、先ほどの物質と反物質のことを説明しておくと。物質と反物質が対生成され同時に融合して対消滅もするが、ここに対称性の破れがあり、物質の方が多く生成されることから対消滅されきらずに物質だけが残ることで、この世界は物質世界として展開されているのである。

このように「展開における陽勝陰負」と「融合においても陽勝陰負」がある。(◇終わる)


まとめ

そこでまとめると、世界は「“中”から」「対称性の破れによって“陽陰といった二元的なもの”に展開する」ということを本質的に備えており、「この陽陰が、融合・組み合わさって存在・成立している(しかも陽が陰に勝るといった型式)」ということが「根源原理」としてあるということなのである。

そこで次節では、この後半の方面「陽と陰が融合して、世界が成立している」について説示する。



2.世界は陽(有)と陰(無)の融合として在る

2-1.世界は陽と陰が融合して形成される

「世界は、有か無か」といえば「=有」である。
※陽陰の色んな性質(有的・無的)
この有と無ということも、二元であり、ゆえに陽と陰の関係と対応して在るものである。
陽陰には他にも色んな性質があり、基本的に有と無のような関係になっている。例えば、陽は秩序的であり、陰は無秩序的である(…正確には無秩序ですらない無である)。陽は無限的で、陰は無的であるなど。(※終わる)

そこで「世界のはじまり」はどちらであったかということが永く議論されている。いきなり結論を言えば、これまでの流れから言って、答えは“中”である。

「“中という状態”が初源に在って」、「”有と無以前のもの”として、”有と無を実は内包している”ような状態」としてあり、⇒これが「“対称性の破れ”から崩壊して展開することで⇒有と無となり、世界がはじまる」のである。

そこで次には、「有と無が、融合・結合することで世界が成立して」いくということなのである。

「現実」はこの「有と無が融合して、その折衷として存在する」ような仕組みになっている。今見たような陽と陰はそのまま陽と陰として完全に分離して在るだけのようなものではなく、「陽陰二元が融合して折衷として現実に現れている」というようなことになっているのである。

そしてこのとき、「陽と陰は非対称」であり「陽が勝ってある」ようなことになっていたりする。故に「有と無が融合する」といっても”対消滅”はせずに、「有が勝って存在していく」。

⇒こうして「世界は有として存在する」ことになっているのである。
=これが世界のもっとも本質的なモデルである。


◇中は一/無的である(中無的の理、中一的の理)

「無的である」

ちなみに元の「中」はといえば、これが「無に錯覚される」ことが多い。
「中」は「無限(有)と無の中間的なもの」であるが、「われわれは有の側にいるので、有から見るとこれはつい無に見える」という事情がここにあるのである。
そこで「中」は「無的である(に見える)」という事情があり、これを「中無的の理」と名付く。
(宇宙のはじまりという議論においても、有から無からはじまったかという話において、どうしても無のようなところからはじまったと考えたくなるのは、この中を直観的に見ながら無のように錯覚しているものであるということを示唆しておく。)

「一的である」

また同時に、「一」的でもあるとも言える。
「無限/多でもないし、無でもない、その中間は“一”である」といったようなことである。
そこで中は一にも見える、また或いは多から見て事実として一でもある。

ここには哲理的な一つの事実がある。
それは「一は一しかないとき、それは一ですらない」ということである。例えばもし赤一色しか色が存在しなければ、その世界の住人にとってはそれは一色ではなく「全ての色」でもあり「色のない」ものでもある、というようなことになるであろう。これが中が一的であるということである。「一は一のみのとき、全でも無でもあるのである」。
そこでこの「中」は「一的である」ということを「中一的の理」と名付く。

これは前者の「中無的」と矛盾するものではなく、全く同一である。中は無限かつ無、無限と無以前の中間であり、無でもあるからである。ただ無的のみに見えるというのは実は錯覚であるということである。

そこで「中」と云う
そこで、これを適切に表現しようとしたのが「中」である。これは厳密には無ではないが無に見えるし、一でもありながら一でもないようなものである、中としか言いようのないものということである。
(中も、中でしかないときもはや中もない。これを仏教は、究極の悟りは言語外と言っているのである)
(◇終わる)


◇上和合原理、陰内展開原理

さらに陽と陰が融合するときには、基本的には「陽が陰に入り込んで、陰の側に形成される」。

例えば、男女が交合して子を成すときには女性側に子が生成される。太陽と地球があって、太陽の光線が地上に降り注いで、地上に生命が生成される。親と子があって、親が子に愛情や諸々を注いで、子の側が成長する。

このように「陽と陰が融合して形成されるときには、陰側内において融合して形成される」といったようなことが本質的に存在する。
これを「上和合原理」「陰内展開原理」と名付く。
(◇終わる)


宇宙でいえば、「世界ははじめは中の状態としてあって、”有の勢力”と”無の勢力”とになり、”有の勢力”が”無の基盤”に働きかけて、そこに物質世界が形成されてくる」というようなことが、「極めて抽象化した次元」で言えるようになる時代が来ると思う。

(※本質を探究するとは必ず抽象度を極めることになる。現代の科学・物理ではまだ数式のみに大きく依拠して世界を論じているが、その抽象的な領域を突き詰めると、もはや「数式以前のさらに究極的に抽象的な議論に至ってしまう」ということになるのは必然であり、人類の知・科学/哲学はそうしたところに至るであろうということを予言しておきたい。)

そうして「有の勢力が無の基盤に働きかけて、この世界がある」。
⇒“完全な無限的有”でもなし、“完全な無”でもなし、「その折衷的に世界が有としてある」。


【註】その他原理について

◇中かつ陽

またもう一つ重要な原理として指摘したいものがある。
中が陽と陰に展開するが「陽陰には非対称性がある」といった。さらにその一つに「中は中かつ陽となる=陽は中的でもあることになる」ということを指摘することができる。

例えば中性子が陽子と電子に崩壊するとき、陽子が中性子の代わりに中心に残り、電子が外を周回する形になって、陽が「中かつ陽」としてあり、陰が陰としてあるようなことになる。親子は一つの中的個体から生じるが、中個体は陽的な親となり、陰的な子は外へ出る。

このように陽陰が展開するとき、陽の方が中的にあって、陰が外周的にある。陽と陰が、それぞれ中と外周に位置付く。これについて<中は「中かつ陽」のような状態になる⇒陽は「中かつ陽」のようにしてある>ことになったりすると見ることが出来る。これも「陽勝陰負、非対称」の現れである。
そこでこれを「中かつ陽」と名付く。


◇下和合原理

もう一つ、重要な原理を記す。
「陽が陰に入り込んで、陰内に融合して展開・生成される」原理を明かしたが、今度は「その陰に展開したものは、反作用として陽に近付いていく」というような作用がある。

例えば、外から入って来て生まれた胎児はまた外へ出ていく。太陽の光線を浴びた植物は太陽に向かって伸び、動物は水中から陸上へ進化する。親・大人から注がれて育った子は、大人・親になっていく。
これを上和合に対して「下和合原理」と名付く。


※反証について:平易化による歪み(事実はさらに複雑)

このように言うともっともらしく聞こえるが、実際に見ていくと実は「今話してきたようなことには、反例があったり、不成立なケースもある」。
「今話してきたようなことはあくまで“基本”であって、現実はこの“複雑系”として成立しているものである、しかしそれ故によく観察しきれば今見た基本で説明ができるものである」と先に述べておく。

そこでこの議論は、正確には非常に複雑なものとして展開されるべきものである。ここはあくまで無理に平易化した説明であってそれによる歪みを含んでいるから、「そういうこともあるかもしれないな程度」に、読み進めていただくことが推奨される。複雑なことについては、完全な理論からしか説明することができない。

これは科学の歴史にも見て取れる。かつては天動説で或る程度の説明はついていたが、単純理解であったために後に発展した視点からすると無理も含んでいた。古典力学でかなり正確に記述できてきたが、単純理解であったために、後に発展した視点からすると無理も含んでいた。平易系で多少の無理があっても、それはそれとして一定以下のことは近似的に説明することも可能であるということは断っておきたい。


2-2.秩序と無秩序/構造(要素と構造)

世界の存在=「“沢山の有”の生成⇒“一”に結合」

このときに、有の勢力は“秩序的”であるといったが、今度はこれについて深掘りする。

秩序とは/無・無秩序とは

「秩序」とはなにか。
その意味することを言い換えると、「“一”であろうとする力」。
さらに言い換えれば、「“一”に“まとまる”力」である。

反対に無の勢力は“無”であるが、これは何か。
この反対すなわち「一の反対」ということであり、
「=(一から反対に)散乱する力」であるといえる。
これが「無」または「無秩序」である。


この一とは、中かつ陽(の中)である
この一にまとまろうとすることの正体は「中」にある。

この一に結集しようということは、陰から陽に戻っていく下和合の原理からくると言ってもよいのであるが、ここで一とは陽のことである。

すでに説明したように「陽とは中から中を引き継ぐ部分をもって在る」ものであり「=中かつ陽」としてある。
そこで「陽」は「中的な要素をもつ」のであるが、その一つが「“一”である」ことである。「無限でありながら一である」ようなものが(完全)陽のすがたである。

そこで、今ここで一に結集していくというのは①<下和合原理:陽に向かっていく>ということでもあり、また②<中に向かって戻っていく反作用>といってもよいし、或いは③<「中・陽陰」「中(一)が陽陰に展開して在る」という構造がこの世界において反復・反映されたもの>として理解しても良い。


◇陰内反復の理:世界に反映される(フラクタル、マトリョーシカ、反復説)

ここで今少し述べたことを一応説明しておくと、「上部構造(=本質的な形)は、下部領域において、同構造がマトリョーシカのように再現される」ということがある。

例えば、親が子をもつが、子がまた親と子となる。これは子の中に、親と子という構造が再現されていると見ることもできる。恒星と惑星があり、惑星においてまた衛星ができる。
このように「本質的で上部にある構造は、下部においても本質・上部・根源であるために、それがまたそこに再現される」というようなことがあるのである。

生物学では「動物の進化過程が、胎内において早送りで再現される(人間の胎児が魚のような形を経てくることなど」」という「ヘッケルの反復説」というものがあるが、これはまさにこの一例である。
これを「陰内反復の理」と名付く。


●有の勢力と無の勢力が融合折衷し、世界が展開する(存在と全体構造)

そこで「有の勢力」が「無の基盤」に融合するとき、「一のものが、まとまる力を喪失して=散り開くようなこと」になる。これがまさに、=<世界が大きくなっていく/増えていく力>でもある。

「無限の一が、無という基盤に、融合して折衷されて、⇒有限に散乱するようにして在る」ことになる。
そして、ここにまた反作用が働いて、この「散乱したものは、また一で在ろうとする」。

このようにして、
①無限有から、無に融合して⇒一ならず“沢山の有“が生成・存在し
②それがただ散乱するだけではなく“一”(秩序)に結合して在ろうとし、
⇓この二つが同時に働いてくるところ、
“沢山の有”が“一に結集しよう”として⇒色んな事物(独立した体系を有するもの)が生じてくる。

例えば、はじめに原子が宇宙に大量に生成されて、やがて恒星と成るのもこの原理による。あるいは原始生命が発生したのもこの原理による。


●秩序と無秩序、無秩序から秩序へ

そこで有(秩序)から無に融合して、そこに「散乱して=ひとまず(体系を有しないようなただの)存在が生成され」、今度はそれがまた「下和合原理から⇒陽的に在ろう」としていく。
まず前者の<秩序でも無でもない状態>が形成されるのが「=無秩序的な状態」である。それが後者のように<元の(無限)有に向かって“結集して在ろう”として形成される>のが「=秩序的な状態」である。

そこで世界には、
・「無秩序的」なものもあれば、「秩序的」なものもあるという状態になっている。
・また「無秩序から→秩序に向かっていく」ということが観察される。
ということになっている。

この「一から散乱して=ひとまず存在が生成される力」と「散乱したものは、また一で在ろうとする力」の両方の力が世界には常に働いている。そこでまた<「秩序的」なものがまた「無秩序的」な状態へと変化していく>ということも起こっていく。ちなみに、この方面を通常「エントロピー増大の原理」などとして説明している。

これらが混ざり合って展開して存在するのが、この世界の本質的様相である。

(※余談:崩壊の方面については、さらに複雑な仕組みがある
実は、無秩序的な状態に帰っていくように見えるのは半分では錯覚であり、「中に向かっていく作用が極まり突然中になることで、かえって存在性以前に帰って存在を失い散乱する」ということがさらなる深層にある。これはあまりに複雑なことなので、本稿では聞き流されたい。ただ、ここであまりに鋭い目から矛盾を掘り出した人に向けて、潔癖症から記しおくものである。)

●構造(要素と組合せ)が在る

そこで<沢山の有が、一に結集しようとして事物がある>のであるが、⇒これが<「要素(部品)と構造」といった状態になる>ことを次に説示する。

具体的に例えば事物として「建物」を観察してみよう。建物というものは、外から見れば「(その)建物という“一”でもあり」、また分解すれば「沢山の要素(部品)とその組合せ(構造)という状態」のものでもある。
つまり<“一”として結集して存在するもの>ではあるが、その内実は<多が、組み合わさっているもの>でもある。

これは建物だけではなく、例えば人体もそう、天体もそう、あらゆるものに見て取られるこれも世界の本質的な原理・しくみである。

そこで、これが何かといえば。
まさに今見た、
①無限有から無に融合して生じた“沢山の有“=要素、
②それが“一”(秩序)に結集して在ろうとする=構造、
ということがその正体・本質だということである。

あらゆる事物は、
ただ一つのものとして存在するのではなく、
「沢山の有が集まって存在するものとなっている」。
そのさらに本質的な仕組みとしては、
①「無限有から無に融合して生じた“沢山の有”」=「要素」、
②「それが“一”(秩序)に結集して在ろうとする」=「構造」、
というようなことになっている、ということなのである。


そこで、色んな事物が今見た原理によって、必然的に「内部構造」「=要素と構造」というものを有して存在するものになっているということである。
この「大きな世界そのものも、そのようになっている」。また「私自身」もそうなっているし、「皆さんの好きなもの」等も恐らくそのようにして在るものである。

このようにして世界・その全てのものが、「内部構造=要素と構造」をもって在るということになっているのである。

余談:ここから伝えておきたいこと

故に世界やあらゆる事物について考えるときには、そこに必ず要素及び構造があって、それを分かることが、その事物について分かることになっているものであって、もしその対象について理解したいならば、そのように見れば効率的に理解することができるものである。
医学は身体をそのように理解し、建築学も建物をそのように理解している。あらゆるものがそのようである。思考というものが、そのように機能している。


【前編まとめ】

いかがでしたでしょうか。
世界の根源原理について、前編を記しました。
平易化してもなお長いので、半分で区切ることにしました。
後編に続きます。


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