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機根=霊格(たましいの成長程度)とは。半面では上下あり、半面では対等。
今回は「霊格」という話をします。
皆さんは、そもそも「たましい」があると認識していますか。
※たましいというものがどのようにしてあるのか、という話はこちらに記しています。
そこで「たましいがある」というとき、
セットで登場するのが「たましいとしてどれだけ成長しているのか」といった問題です。
この「たましいの成長度合い」のことを、従来の仏教では「機根」といいますが、現代では誰が言い始めたか知りませんが「霊格」と言ったりします。←わかりやすいので、今後普通に使われるようになることを期待しています。
そんな「霊格=たましいの成長度合い」について、今回は記します。
1.霊格とは、どのようになっているか
たましいがあるとすれば
「たましい」というものがあるとすれば。
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「単に生まれてきて死んでそのまま永遠に残る」ということではなく、その長い存在期間において「成長する」ということがある、ということがセットであるのだろうということが何故かおおよそ直観されるものと思う。
ここには輪廻転生を認めるものと、認めないものがあると思うが、そのどちらにおいても「たましいがあるならば、その成長というものがあり、それが要求される」ということが何となく想像できるものと思う。
※この点、仏教は非常にわかりやすく、
「たましいのようなものは、あるとき生まれてきて、長い存在期間によって成長していき、最後は仏となる」というゴールまでの図式がはっきり示されており、ちょうど日頃の肉体の人生の成長とも似たところがあるので受け入れやすいものと思う。
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→少し鋭い人であれば、「成長しきって=仏となって、その後はどうなるのか」という懐疑を投げかけるかもしれない。
ここが仏教の難しいところであるが、ここには幾つかの説がある。
(ア)一つは、「そのまま消滅する」といったようなイメージであり、「二度と生まれ変わらない」という。これは「肉体で言えば、死を迎えて消滅していく」図式があるから、わかりやすいかと思う。
(イ)もう一つは、「そのまま永遠に存在していく」といったようなイメージであり、仏となることは「喩えば親になるようなもの」であり、「自分の世界(家庭と喩えればわかりやすいか)を創造し、そこにまた衆生が生まれてきてそれを育てていく」というような図式のパターンである。これも日頃の肉体で起こっている、「成人して今度は自分が親となる」という図式があるから、わかりやすいものと思う。
大体このような説に分けられる。
ちなみに私は後者の立場に立つものである。
そこで、「たましいというものがあるとき成長というテーマもそこにある」として、さらに輪廻転生まであれば、さらにわかりやすく「成長」というものがあると理解されたとしよう。
(輪廻転生が事実であり、各宗教は喩えば親の子育ての教えのような方便を多分に含むもので相違しているだけであり、キリスト教のいうような霊魂観と輪廻転生とは矛盾しないといったことは、すでにこれらの記事で記してきたとおりである)
(話しを戻す)
そこでセットで言えることとして、
それでは「たましいには成長程度がある」ということになる。
それぞれのたましいが肉体の成長のように成長していくものだということは、肉体には肉体の年齢や同種の生物同士では大体似通ったような成長過程・具合があるのと同じように、「たましいにも年齢や一定定まった成長過程・具合がある」ということになる。
このようにして、たましいには成長程度があるとして、=それのことを「霊格」と呼ぶことにする。
たましいには、「それぞれの程度=霊格」というようなものがあるのである。
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そこで、「生命はすべて各々の霊体が活動している」から、「それぞれの生命・或いは死後の霊には、(肉体の年齢のようにして)、それぞれの霊格がある」ということになる。
霊格は基本的には輪廻転生歴と相関
そこで、霊格とはどのようになっているであろうか。
簡単に言えば、「基本的にはたましいの輪廻転生“歴”」によっている。
「肉体の大きさなどが、基本的にその年齢によっている」のと同じことである。
霊格とは基本的にたましい年齢(輪廻転生歴)である。
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ところが、肉体でもそうであるが実際には個体によって成長速度が違ったりもする。
そのようにして、たましいも成長速度は個体によってバラツキがあり、必ずしも輪廻転生歴だけで測れるものではない。
喩えには限界(肉体の喩え以上のことがある)
また今は喩え話として肉体を使用しているが、喩えはあくまで近しい構造のものというだけのことであって完全に同じではない。別の喩えを用いてみて「学習」でいえば、「その速度は極端にバラツキ」があったり、或いは「一旦学習したことでも怠けていれば忘れて退化してしまったり」もする。肉体の喩えでいえば、身長は成長期間において縮んだりしない。
たましいの成長は、実際には肉体の成長よりは複雑である。
(ア)基本的には、年齢・歴に相関しているが、
(イ)そこに色んな要素が絡んでいる。
一旦成長してもある程度は退化してしまうようなこともあるし、良い方向に成長するばかりではなく、悪い方向に成長するというようなこともあったりする。
物質界と霊性界は半分では真反対の性質
そしてもう一つややこしいことは、
「肉体」は物質界のものであるが、
「物質界と霊性界というものは性質が半分では真反対な部分がある」。
その中の一つに、
・霊性界の方が一様性が高いだとか、
・霊性界の方がきっちりしているだとか、
そういう部分があったりする。
そこで一つ言える肉体と霊体の真反対な点として以下のことが言える。
・肉体の人間では、その肉体の個性というものが強く、「成長した完成形に相当に相違があったりする」が、
・おそらく「たましいの完成形はもっと一様に収斂する」ものである。
そういう、物質界の観点だけでは理解しづらい部分があるということもある。
そういうことで、繰り返しになるが、「(ア)霊格とは基本的には輪廻転生歴と相関する」「(イ)ただしそれ以外の要素も大きい」といったことが、その実相である。
たましいの完成形は一様的
今すでにさらっと触れたが、「肉体の完成形はそれなりに相違する」ものであるのに対し、「たましいの完成形は恐らくであるが一様的な方面が相当強い」ものなのだろうと直観する。
事実、仏教でも、「仏という完成形においては、その内容はどの仏も、肉体の完成形の相違を考えれば、かなり一様傾向な描写である」と私は感じる。「内面の完成についての説明などは、ほとんど完全に一様である」といって差し支えないものと思う。
…智慧の内容も同じ、人格のようなものも同じ。一様な完成形に収斂するようなものとして説明されている。そしてそれが事実なのである。
物質界と霊性界は半分において真反対だということから理解されたい。
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そこで「たましいの完成形は一様(傾向)」であるとして、
「全てのたましいがそこに向かって、輪廻転生を重ねている」ということになる。これが、全てのたましいの姿である。
過程では…長所と短所
一方でその「過程」においては、そう(一様)ではない。
むしろ「各たましいによって、その特質があり多様である」。
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そこで言い換えれば、「各たましいには長所と短所があったりする」という言い方もできる。長所とは完成形に同じということ、短所とは完成形に外れるということをいうことになる。
そこで、ほぼすべてのたましいは未完成なのだから、「みんな長所と短所を有している」。そのような状態にあるものである。
それが、成長しきっていくと、ほとんど完成形に収斂し、それはすなわち長所だけとなっていって、短所がなくなっていくということである。まさに「たましいの成長」である。
しかし反対に、「未完成のたましいには、長所と短所がある」という状態に必然的にあるのである。
そこで、それぞれに多様な長所と短所といった特質がある状態にある。
霊格とは(ア)転生歴×(イ)特質
そこで霊格とは、ということに戻ってみると、
まず基本的には「輪廻転生歴」による、成長具合を言う。
これは「勉学」で喩えれば、「その知識量」のようなものである。
ところが勉学でいえば、知識量だけでは測れないものがある。
例えば、「知識の量が単純に多い」といっても、
・それには”整理具合”があったりする。量があっても整理が出来ていないならば、それを活かせる度合いでは高くなりきらない。
・また或いは知識が沢山積まれていても、それが全て正しいものとは限らない。間違った知識もそこに含まれていれば、その分だけやはり活かせる度合いでは高くなりきらない。
このような感じで、輪廻転生歴だけが霊格を意味するものではない。
そこには”質”があったり、”善悪の割合”があったりする。
「そこまで掛け算されて出てくる”活かせる度合い”」が「=霊格」のようなものであるということである。
そこで、このような例があったりする。
・輪廻転生歴はそれなりにあるが、悪の歴も長く含まれていて、歴の割には霊格は高くない。
・輪廻転生歴は少ないが、素直な性質で、歴の割には霊格が高くなっている。
・霊格が一度は高くなったが、怠けている間に劣化して、霊格が低くなった。
功徳と罪業ということ
この「知識」でいうところの「正しい・間違っている」などが、「たましい」で言えば「善悪」のようなものである。
・善悪の割合
正しい知識を積めばそれは活かせる知識量としてそのまま成績の格になるが、間違った知識を積んでいればそれは成績の格としては高くならない。
・歴
また或いはそもそもまだ年齢が浅くて、知識量自体が蓄積されていなければ成績の格として高くなりようがない。
このように、この話をさらに正確に言い換えれば、「善悪をどれだけ積んできたか」といったことになる。
この「善を積んで蓄積するもの」を「功徳」といい、「悪を積んで蓄積するもの」を「罪業」と言ったりする。
霊格とは総合水準・平均値
そこで霊格とは、この「功徳・罪業の総合点数・総合水準」のようなものと言える。
そこで起こる一見分かりづらい事象として挙げられるケースとして、「霊格の低い者と高い者がいたとして、ある一生において後者の方がより功徳を積むとは全く限らない」。「普段の成績水準がよくても、あるとき怠ければ、低い者の方がそのときの学習量は多くなる」ということは簡単に起こる。
霊格というものは「あくまで、それまでの輪廻転生の総合水準・平均値」のようなものであって、「一回の人生だけを見てそこだけを切り取って理解できるようなものでは、むしろ全くない」ということである。
その一回の生で仮に極悪人でも、霊格は一般よりは高いということも全然に有り得たりする。その一回の生でどれだけ善根功徳を積んでいても、霊格自体はまだそこまで高くなりきっていないということも有り得たりする。
霊格とは、(ア)基本的には輪廻転生歴。
そこに、(イ)そのたましいの特性や、善悪歴の割合などが絡む。
そうしたことの、「総合的な水準・平均値」のようなものを言うということである。
高さだけではなく、それぞれの特性
また、霊格は単に高さというだけではない。
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例えば、「総合点数として成績の同じ二人の者」がいたとして、そこには「それぞれの特性」というものがあったりする。
(A)片方は理系は得意であるが記憶科目は苦手であり、(B)もう片方はどちらも普通であるなどといったように、合計としては同じような成績の高さであっても、その内容を見たときに、それを単に並列して比較できるものですら実はなかったりするということがある。
これと同じように、総合的な霊格として比較はなんとなくは出来るものとも言えるが、また半面ではそもそもそのような比較は一切できないとも言える。
それぞれは、全く特性の異なるそれぞれの成長過程にあって、比較できるようなものではないとも言えるのである。
例えば、成績で極端な例をもって喩えてみる。
Aさんは数学で日本一のような成績であるが国語は壊滅的であるとする。Bさんは国語が日本一のような成績であるが、数学は壊滅的であるとする。Cさんは、全てが普通の成績であるとする。この三者の総合点数が同じであるというとき、純粋にこの三者に優劣があるかといえば、それぞれの特性があるものであって比較できるようなものではないであろう。
霊格においても全く同じことである。
総合的な意味での霊格は同じくらいと仮に言えたとしても、それぞれのたましいの特質は全く異なる部分が多ければ多いほど、比較不可能なことになる。
そして今は三者の総合点数が仮に同じくらいであったときのことを喩えたが、これが仮に総合点数において上下がそれなりにあったとしても、やはり比較不可能であろう。
総合的な格が高いということが仮に言えたとしても、やはり比較は不可能・無意味であったりする。
しかも成長速度にもバラツキがあって、総合点数の低い者がどこかでバーッと上がっていって追い越していくかもしれない。
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つまり、霊格は仮に総合的な意味で比較できたとしても、それはあくまで仮に言えるようなことであって、厳密には総合的な高さもあるにはあるとして、比較不可能な部分もまた半面では同じだけあるということであり、それはさらに言い換えれば「霊格には上下があるとも言えるし、全く上下はない=全く対等である」とも言えるということである。
さらに言えば、「はじまりの霊格とおわりの霊格は全てのたましいにおいて共通」である。たましいの完成形は一様傾向であるということを既に述べたとおりである。
完成した者同士には歴は関係がない
これまた説明がやっかいなのであるが、完成した者同士には歴はほとんど関係がないようなことになっている。喩えるならば、登頂した者同士が、その歴によって「物理的な目に見える景色は相違しない」ようなことと仮に理解されたい。どうやら、概ねそのようなことになっているらしい。
そうであるから、すべてのたましいは一様な完成形に向かって成長していて、「いつか同じ地点に到達し、そこで歴に差がなくなる」ということになると、少なくとも「終わりにおいては差が無い」ということになる。
このような意味においても「対等である」ということが言える。
登山で霊格を喩える
そこで、これまでの話を「登山」に喩えてみることにする。
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・山の裾野「0M地点」にそれぞれのたましいが、それぞれの特性を帯びながら生まれてくる。
・反対に「完成形=到達地点」は、全く一様なものとしてはるか先にある。
・下から輪廻転生を繰り返してそれぞれに、山頂を目指して、歴を積んでいく。
・それぞれの道が別個に山頂に伸びており、似た道もあれば結構異なる特質の道もある。(…上り下りを繰り返すような道もあれば、比較的平坦な道もあったり。泥道が多い道もあれば、そうでもない道もあったり。)
そのようにして、みんなが山頂に向かって歩いている。
このような状況に喩えてみることが仮に出来る。
たましいは半分・究極では皆対等である
そこで、霊格とはつまり、高度である。
基本的には(ア)歴が反映されるが、(イ)それ以外の要素もあり、完全に対応するわけではない。
そして、それぞれの道は別個であり、比較可能度の高いものもあれば、不可能度が高いものもある。
高度だけでは、それぞれの山頂までの近さなどは測ることができない。
また高度だけでは、それぞれの道の結果を比較することはできない。
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半分では上下は参考基準として言えるが、半分では全く言えず、それぞれの道は比較不可能性から対等とも言える。しかしまた反対に、それなりに歴という上下も情報として有効でもある。
「半分は上下もあるし、半分は上下無し=対等」である。
そして「究極に山頂に至るとき」、或いは「はじまりの地点」においては、「全く対等」である。
霊格とは=すなわち”生きとしいけるもの・死後の霊の皆さんの格”というものは、ちょうどこのようになっているものである。
まとめ
そこで、霊格=生命みんなの格というものについて、
このようにまとめることができる。
基本的には、(ア)輪廻転生歴と相関して、上下というべきものもある。
しかし(イ)各たましいの特質は多様であり、比較不可能な部分も大きく、そのような意味で上下はない。すなわち対等である。
しかしまた一方では、上下というものも、確かにあるにはあり。
(ア)(イ)この二つが同時に真実である。
さらに、(ウ)はじまりと終わりにおいては全く対等であり、
ひっくるめて「究極的には対等である」ということになっている。
2.まとめ
いかがでしたでしょうか。
たましいは皆さん、半分・究極では対等であるということ。
その「真理」をわかっていただければ幸いです。
このように登山で喩えてみたり、深く考えてみたときに、「仮に上下のようなものもある」としても、「深い意味において対等である」ということが、「真理から分かる」ことができると思います。
対等であるということが奥底からわかっていれば、きっと多くの世の問題は起こらないでしょう。
世の中を見ていますと、人は基本的に「優越感・劣等感」を有して生きています。それが結局、「人間関係において多く問題を引き起こしている」ということを観察することができます。
そのようなことが「真理から外れている」ということがいつか全員にはっきりと分る日がくれば、どれだけ平和になるであろうかと常々思います。
そこまで行ききる日はまだまだ遠いにせよ、分る人が分かる時代はそれほど遠くないものと信じていますので、「分る人から分かって頂いて、平和で柔和なこころで世界に存在してくれる同士が広がること」を切に祈念いたします。
人はみんな助け合って生きている。
それはこの現代だけのことではなく、太古からの全ての人の努力が自分の生活をほとんど支えている、そういった範囲まで含めてのことです。
そうした事実をはっきり見るとき、どうして驕り高ぶっていることができるでしょうか。利己的でいられるでしょうか。
わたしはいつも、身のかがむ思いです。(それでも仏と成りきるまでは、優越感・劣等感は最後の方まで無意識に動くものですが…)
そうしたことも含めて、「たましいの智慧が深まっていくこと」を願います。
【ご喜捨のお願い】
社会の精神的な向上を願って、宗教者の道を歩んでいます。
本物の宗教を徹底して示すべく、厳しくともご喜捨のみで歩んでいます。
もしご縁ありましたら、以下よりご喜捨いただけましたら幸いです。
みなさまに功徳が廻り、社会の精神基盤に寄与しますように。
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※ただし手数料が18%ほどかかり引かれますので、従来通りお振込みにてお施しくださる方はそのままにして頂ければ大変幸いです。その他の方は、以下のメンバーシップからお願いします。
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