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ズィーバーとイタリア、その時代と作品、影響力

ズィーバーという名前を聞いてピンとくる音楽ファンはどれだけいるでしょう?いや、ファンに限らず、音楽家を含めてもどうでしょう?このほとんど知られていない作曲家は6曲からなるリコーダーソナタ集を残しており、さらに当時の作曲家に大きな影響を残した可能性があるのです。

ズィーバーとは誰?

イグナツィオ・ズィーバー(Ignazio Sieber, 1680-1757/1761)はバロック時代後期の作曲家という以外、その生涯について詳しいことはわかっていません。
ヴァルターの1732年の音楽目録には

「ズィーバーはローマの音楽家で、6曲のリコーダーソナタをガリアルドのソナタと共にアムステルダムで出版した」*1
Johann Gottfried Walther: Musicalisches Lexicon, 1732, p.568

と記されています。
またゲルバーの作曲家列伝目録には

「1725年頃にローマに住んでいたドイツ人の作曲家。6曲のフルートソロを作りアムステルダムで出版した」
Ernst Ludwig Gerber: Historisch-biographisches Lexicon der Tonkuenstler Bd.2, 1792, p.512

と記されています。
また、ヴィヴァルディが音楽監督を務めたことで知られるヴェネツィアのピエタ慈善院付属音楽院(以下 ピエタ音楽院)の記録からわかっていることは、ズィーバーという名前の人物が1713年から1715年にかけてオーボエ教師として、1728年から1730年と、1750年から1757年にかけてバロックフルート教師としていたことがわかっています。ヴィヴァルディがこの音楽院において1703年からヴァイオリン教師、1716年から音楽監督であったことを思えば、ここに記載されているズィーバーがリコーダーソナタの作曲者と同一人物とするなら一時期ヴェネツィアでヴィヴァルディの同僚として働いていたことになります。

後で述べるようにズィーバーのリコーダーソナタにはナポリ楽派的な部分もあれば、住んでいたというローマ、教師をしていたらしいヴェネツィアとイタリア各地の要素が見られます。そこでズィーバーのソナタが出版された時期、さらに同一人物とみられる演奏家のズィーバーがヴェネツィアに教師としていた時期、さらに伝記資料に残るローマに住んだ時期を考慮して、1710年から1730年までのイタリア各地の音楽事情を簡単にみておきましょう。

イタリアの音楽状況

●ナポリ

ナポリはオペラの発展に大きな役割を果たし現在ではナポリ楽派という名称を残し、アレッサンドロ・スカルラッティ(チェンバロ作品で有名なドメニコの父)を先人に多くのオペラ作品で成功作を生み出します。音楽的には華麗でありつつ、転調が多く、ナポリの6度と呼ばれる和音の動きも特徴といえます。スカルラッティはナポリとスウェーデンの宮廷において長く楽長を務めますが、音楽自体は特に晩年(1710年)以降はナポリでよりローマでオペラは多く上演され、人気が高かったのもローマであり、当地の音楽に影響を与えることになります。リコーダー作品では、スカルラッティがなくなるまでナポリ宮廷の副楽長に甘んじることになるフランチェスコ・マンチーニのリコーダーソナタ集(1724年ロンドン出版)がありナポリ楽派としてのメロディーの多彩さ、抒情性、転調による変化の激しさやフレーズのやや過剰な繰り返しを見ることができます。ズィーバーの作品にも転調やフレーズの繰り返しに類似したものを見ることができます。他にこのマンチーニの作品を中心として、レオナルド・ヴィンチ、レオナルド・レーオ、ドメニコ・サッリ、スカルラッティの作品で編まれた24曲からなるリコーダー協奏曲集(編成はリコーダー、2本のヴァイオリンと通奏低音)が知られています。

●ローマ

ローマは器楽においてまさにアルカンジェロ・コレッリの影響が大きかった土地といえます(ローマだけでなくこの時期のイタリア全体、ヨーロッパ全体に影響を与えたといってもよいでしょう)。コレッリは1713年に亡くなりますが、1700年に出版されたヴァイオリンソナタ集と没後1714年に出版とされた合奏協奏曲集の影響力は多大で、18世紀後半まで何度も再版が繰り返されヨーロッパで売れ、様々な作曲家が装飾を考え記録し、編曲したものなどが多く残ります。コレッリの音楽はシンプルであり、ヴァイオリン曲であっても音域がそれほど広くなく、だからこそ当時すぐにリコーダー用の編曲まで出版されましたが、ズィーバーのソナタのシンプルな旋律やヴァイオリン的な上下に広がりつつ繰り返される音形にはコレッリ風のところが見られます。ただ、この影響は、コレッリの後にヴァイオリニスト、作曲家として成功した(しかし正直、シンプルさは似ててもいささか単純、凡庸な面がある)ジュゼッペ・ヴァレンティーニの可能性もあります。まさにズィーバーがリコーダーソナタ集をアムステルダムのロジェ出版から出す前後に、ヴァレンティーニはすでに出版し成功していた器楽作品を全部ロジェから再版しているのです。ズィーバーがヴェネツィア以外にローマとも音楽家として密接であったとするなら、同時代的な影響は受けやすかったかもしれません。

●ヴェネツィア

ヴェネツィアはナポリ楽派のあとを襲うことになるヴェネツィア楽派の地であり、その中心人物が(後世いかに、どの作品も似ていると誹られようとも)アントニオ・ヴィヴァルディであり、その才能と多作に負っていることは間違いありません。ヴィヴァルディ自身は、ピエタ音楽院のヴァイオリン教師に始まり、後年は音楽監督になる数年前から音楽院のための作曲をすべて請け負うことになります。ズィーバーのリコーダーソナタが出版される頃には、弟子として訪れてきていたピゼンデルのためにヴァイオリン協奏曲やソナタを書いています
同地にはベネデット・マルチェッロ、トマゾ・ジョヴァンニ・アルビノーニ、フランチェスコ・マリア・ヴェラチーニと言った人々が同時代に活躍し器楽作品を残しています。前の二者は貴族であり公務を持つ兼業作曲家ですが、マルチェッロは1712年にリコーダーソナタ集作品2をヴェネツィアで出版しており、これは当然ズィーバーの目に触れているでしょう。アルビノーニは1716年にオーボエ協奏曲集を出版しています。ヴェラチーニは1716年に最初の作品集となるヴァイオリンまたはリコーダーと通奏低音のための12のソナタ集を書くことになります。そしてこれらの作品は作曲家、演奏家としてのズィーバーに関わっていることが明らかになります。

ズィーバーのリコーダーソナタ集

リコーダーソナタの作曲者であるズィーバーが、ピエタ音楽院で教師として活動したズィーバーと同一人物かどうかは、ここまで曖昧に、同一人物だったとしたら、という仮定のもと話をしてきました。実際に同一人物かどうかは、その作品と出版時期からある程度推測できます。ここでは、ズィーバーのリコーダーソナタがどのような特徴を持っているのかをみてみます。

ズィーバーの作品が含まれるリコーダーソナタ集は1716年から1717年にかけてアムステルダムで出版され、前半6曲がガリアルド(Johann Ernst Galliard, 1680-1749)、後半6曲がズィーバーによる計12曲の構成となっています。
正式な表題は

「フルートと通奏低音のための12のソナタ。
前半6曲はガリアルド氏作曲の作品1、後半6曲はローマのズィーバー氏による。
アムステルダム、ジャンヌ・ロジェ出版 No.430」

**XII SONATES
A une FLute & Basse Continue,
Dont les 6 Premieres de la Composition de Monsieur GALLIARD, qui font son OPERA PRIMA & les 6 Dernieres de cells de Monsieur Sieber demeurant a Rome.
A AMSTERDAM CHEZ JEANNE ROGER No.430 **

ズィーバーの6曲のソナタは、いずれも緩急緩急の4楽章形式からなっており、急である第2、第4楽章はすべてアレグロと指定されています。
緩徐楽章は、第1、2番はラルゴだけ、第3、4番ではアダージョが主になり、第5、6番ではアンダンテやカンタービレという第1〜4番にはなかった指示がでてきます。そして第1、2番(その他に例外的に第4番の最終楽章)は速度表示以外にPreludio、Corrente、Ceciliana、Capricio、Sarabande、Allemanda、Gigaと、イタリア語の舞曲名が指示されていることが特徴的です。
このように見ると2曲ずつの3つのセットからできていると考えることができます。
調性でみると、第1、3、5番が調号のないイ短調、ハ長調、ハ長調、第2、4、6番がフラット2つのト短調と調性はかなり限られており、この点でも2曲ずつという見方も可能です。

第1番イ短調の第1楽章Preludio/Allegroは、ヴィヴァルディの1711年に作品2として出版されたヴァイオリンソナタ集の第3番の第1楽章と同じモチーフからできていますが、ヴァイオリン的な音域の広さをリコーダーに合わせるためのオクターブの変化や、細かなモチーフの追加により、原曲と同じであると気付きにくくなっています。
第5番ハ長調はフランチェスコ・マリア・ヴェラチーニの手稿譜として残る「ヴァイオリンまたはリコーダーと通奏低音のためのソナタ集」(1716)の第5番と同一の内容です。
ほとんど同じ内容でありながら、後者より細かな装飾がつけられていること、前者では単純な音形のフレーズの繰り返しになっているところが、後者では変化をもたせるようになっていること、さらに第3楽章が3/4拍子から3/2拍子へと音価が倍に伸ばされバスラインが滑らかな形へと変形されていることなどから、ヴェラチーニがズィーバーの曲を借用したと見ることができます。

ズィーバーの6曲のソナタ全体を見渡すと、基本的には、ヴィヴァルディ的な部分とコレッリ的な部分がモザイクのように組み合わさっているように感じられます。
冒頭の第1楽章が緩徐楽章として抒情的に始まるところはヴィヴァルディ風、第2、第4楽章の急速楽章においてはヴィヴァルディのヴァイオリンソナタに見られるような速い細かな繰り返されるフレーズをうまくリコーダーの音域にはめ込んだ形が見られます。同様な速いフレーズが続く場合であっても第3番の急速楽章はよりバリエーションがついてシンプルながら多彩なコレッリ風といえるかもしれません。急速楽章でもそのような形がではないコレンテやジーガはコレッリに近く、第3楽章の緩徐楽章で3拍子のものもとてもコレッリのヴァイオリンソナタの緩徐楽章に似た作風見られます。
その他にも、第1番の最終楽章のカプリッチオや第2番の第2楽章のコレンテでのやや執拗なフレーズの繰り返しや、第5番の第2、4楽章で見られるような転調を繰り返していき、どこかへ行くかのように見せてきっちり戻ってくるところにはナポリ楽派的な香りもします。

このように、ズィーバーの作品は当時のイタリアの音楽のトレンドをいろいろ取り入れて消化し、一種のアラカルトのようなソナタ集に仕上げたように見えます。それが最大限の効果を上げているかどうかは微妙なところですが、このような器用さはズィーバーが演奏家としても各地に住み、音楽家と交流し、作品にも触れたことによって得た技術だったのではないでしょうか。そのように考えると、作曲家ズィーバーとヴェネツィアの記録に残るオーボエやフルート教師をしていたズィーバーは同じ人物であり、ローマやヴェネツィアを中心に音楽家として活躍していたと見てよいのではないでしょうか。

ズィーバーの影響

ズィーバーの作品には、様々な様式が組み込まれていると同時に、同時代に活躍した作曲家の作品と借用したりされたりがあることをすでに述べましたが、演奏家としてのズィーバーはヴェネツィアにおいて作曲家により大きな影響を残したのかもしれません。冒頭にも述べたようにズィーバーとヴィヴァルディは1713年から1715年にかけてオーボエ教師とヴァイオリン教師としてピエタ音楽院の同僚でした。ピエタ音楽院に初めてオーボエ教師が赴任したのは1704年ですが、その後しばらく空席が続き、ズィーバーの赴任は久しぶりのものだったようです。ヴィヴァルディが初のオーボエ協奏曲2曲が含まれた作品が7を出版したのが1716年だったことを考えると、この作品の作曲のきっかけ、さらに技術的な相談やソリストとしてズィーバーが関わった可能性はないでしょうか。ほぼ同時期にアルビノーニのオーボエ協奏曲集作品7が書かれていることも何か関係があったのではないでしょうか。ヴィヴァルディは1716年から1717年にかけてピゼンデルが弟子となるため来た時に、ピゼンデルのために多くの作品を残しています。この行動からいっても、ヴィヴァルディがオーボエのための作品を初めて書いたというのはズィーバーが教師としてヴェネツィアに来たおかげと考えてもよさそうです。

ズィーバーとアルビノーニ、ヴィヴァルディとのつながりはさらに見つけることができます。ヴェネツィアにおいて最初のバロックフルートを使った曲とされているのは、アルビノーニが1724年に作曲したセレナータ「Il nome glorious in terra, dentifrice to in cielo」の中のアリアのオブリガードパートと言われています。次いでヴィヴァルディは1718年にはピエタ音楽院の音楽監督を離れますが、ヴェネツィアやローマを中心に音楽家活動を続け、1726年にオペラ「狂えるオルランド」で初めてバロックフルートを使い、1728年には「海の嵐」「夜」「ごしきひわ」などを含む有名なフルート協奏曲集作品10を出版します。この年はピエタ音楽院に初めてのバロックフルート教師ととしてズィーバーが戻ってきた年なのです。この協奏曲集の中の幾つかの作品はリコーダーなどをソリストとした室内協奏曲であったものをバロックフルート用に加筆編曲したものであることを考えると、この時期がバロックフルートがイタリアにおいても急激に人気が出てきて曲の需要が増したことだけでなく、ヴェネツィアにズィーバーという奏者がいたこと、作曲家とつながりがあったこともこれらの作品が書かれたり編まれたりする契機になったと想像してみたくなります。さらに想像を逞しくするなら、フランスからイタリア北部へとバロックフルートの人気が伝わる中、ヴェネツィアにその奏法、技術を持ち込むために呼ばれ、作曲家たちの作品創作にも影響を与えたのがズィーバーだったと考えるのは無理でしょうか。

ズィーバーという作曲家のは作品はリコーダーソナタ集しか現存しておらず、当時どれほど活躍し、有名であったかは残った記録を見る限り、あまりパッとしないものだったようにみえます。しかし、多様な様式を取り込んだリコーダーソナタ集を見る限り作曲家としてもっと活躍することもできたような、オリジナリティが足らないような、という面は見せていても、上で述べたような歴史的事実からの推測が真実なら、奏者としては、ヴェネツィアにおけるオーボエやフルートの使用に大きな役割を果たし、協奏曲の創作に大きな影響を残し、名曲が作られる契機となったすばらしく重要な人物だったのかもしれません。

なんてズィーバーってすごいんでしょう!

(了)
本文はここまでてす。
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