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現代意訳金剛経 第1章 縁起しもの

第1章  縁起しもの

1
遠い、遠い昔のことです。
ブッダは、1250人の修行者たちとともに、ジェーダの森にある園で過ごされていました。ブッダはその日も、下衣を着け、上衣を身にまとい、鉢を持ち、まちへ托鉢に出かけられました。托鉢でいただいた物で、食事を済ませると、精舎へ帰られ、鉢と上衣を片付け、両足を洗い、いつもの場所に着き、姿勢を整え、坐を組まれ、大きく深呼吸をし、そして深い冥想に入りました。
その姿を見て、修行者たちも、そのまわりに集まってきて、ブッダの両足を頭に頂き、ブッダのまわりを右に三度回り、礼拝して坐を組み、同じように冥想を始めました。


2
その時、スブーティ長老もまた、その集まりに居合わせ、坐っていました。それからしばらくして、スブーティは、坐から起ち上がって、上衣を一方の肩にかけ、右の膝を地につけ、ブッダのおられる方に礼拝して、次のように尋ねました。
「ブッダよ、是非伺いたいことがあります。私たちは、仏法の自覚に向かわんとす意志を起こすために、どのようなことに心懸け、その意志を保てばよいのでしょうか。」

ブッダが沈黙を破り、そして語り始めました。
「それではスブーティ、今日はあなたとの対話を通して、そのことについて一緒に考えてみましょう。」


3
ブッダが言いました。
「これまでにも話してきたとおり、仏法とは、ものごとの究極的な成り立ちを説く法則、つまり、ダルマ(この世の秩序)のことを言うのです。その、ものごとの究極的な成り立ちを観察すれば、それは様々な他のものごとに条件づけられて、それらが重なり合わさって成り立っているのです。私は、この様々な条件となる無数の要素を「縁」と呼び、それらが重なり合わさることでものごとが成り立つ原理を「縁起の法則」と呼んでいます。
 この、ものごとの成り立ちを説く、縁起の法則は、あらゆる教えの根源となっているのです。ですから仏法の自覚とは、縁起の法則、縁起を自覚を言うのです。そのうえで仏法、つまり縁起の自覚を志す者は、このように心懸け、その意志を保つようにするのです。
 それはおよそ命あるもの、卵から生まれるもの、母親から生まれるもの、ジメジメしたところに生まれるもの、自ら分裂して生まれるもの、それだけではなく、直接目に見えるもの、直接目に見えない微細なもの、思いを持ったもの、思いを持たないもの、また思いを持つのでも、持たないのでもないもの、そのほか考えられる限りのものごとに、縁起の自覚を諭し、穏やかな状態に導かんと心懸けることで、その意志は保たれるのです。
 しかし、もしあなたたちが、彼らをそのような状態に導いたとしても、実はそのようなことはないということも、同時に心懸けなくてはなりません。
 例えばあなたが、私が彼を導いた、彼は私に導かれたと思ったとしましょう。その思考を深く見つめれば、それは、自分という意識や、自分の立場、自分の心体、自分の時間があると考えていることであり、自分とはこれだと、踏み固め、実体視した認識をしていることになります。また同じように、ものごとの色や形、音、香り、味、感触、概念を通して、そのものごとを理解したとしても、それは、ものごとを踏み固め、実体視する前提に立った認識に他ならないのです。
 このような、踏み固め、実体視する私たちの認識のことを、サムジュニャーと言います。ただし、このものごとを実体視するサムジュニャーの認識では、縁起の法則の自覚に至ることはできず、その人を縁起に生きる者と呼ぶことはできないのです。なぜなら、縁起の法則を自覚する者は、自分を含め、あらゆるものごとは、様々な他のものごとに条件づけられ、それらが重なり合わさって成り立っていることを、自覚する者を言うのだからです。
 そのため彼らは、あらゆるものごとは、他の人々、他のものごとと切り離して、単独では成り立ち得ないことを知るに至るのです。ですから、縁起に生きる者は、自分にも、ものごとに対しても、究極的には、固有の実体がないと考え、その上で生きているのです。そのため彼らは、そのようにして積み重ねた自らの気づきに対しても、自らのものとして、思い量ることもしないのです。」


4
そこでブッダが尋ねました。
「例えば、私たちは、あの頭上はるかに高く広がる大空を、これがこの空で、あそこからあそこまでがあの空だと、固有の実体があると言えますか。」

スブーティが答えました。
「そのようなことは言えません。」

さらにブッダが尋ねました。
「それでは私たちは、東西南北、上下左右、あらゆる方位の、頭上はるかに高く広がる大空を、これがこの空で、あそこからあそこまでがあの空だと、固有の実体があると言えますか。」

スブーティが答えました。
「そのようなことは言えません。」

するとブッダが言いました。
「縁起に生きる者は、ものごとの価値にも、固有の実体がないと考え、その上でものごとに応じているのです。だから彼らは、そのようにして積み重ねた、自らの気づきに対しても、あの大空と同じように、固有の実体がないと考え、自らのものとして、思い量ることをしないのです。私たち、縁起の自覚を志す者は、このことに心懸け、その意志を保つようにするのです。」

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