10.意識の形而上学 『大乗起信論』の哲学(井筒俊彦)

貴重な文化的遺産として我々に伝えられてきた伝統的思想テクストを、いたずらに過去のものとして神棚の上にかざったままにしておかないで、積極的にそれらを現代的視座から、まったく新しく読みなおすこと。切実な現代思想の要請に応じつつ、古典的テクストの示唆する哲学的思惟の可能性を、創造的、かつ未来志向的、に読み解き展開させていくこと。

言い訳タイム(2500字くらい)

ほんとうなら、この人の本を記事にして投稿なんてのはしたくない。

長いものに巻かれて無事にやっていけたであろうぼくが、大怪我をしながら、憑かれたように毎週毎週コソコソと本を読んでいるのは、言ってしまえばぜんぶこの人のせいだ。悪い影響で言えば、最初に読んでしまった『意識と本質』のせいで、「関連」のことを「連関」とかいったり、エラそうに「聯関」とか言っていた。あとは、そうだな、思惟とか言ってたりした。笑

井筒というひとは、最近のジンブン界隈の人たちみたいに対談や鼎談みたいなことをしなかった。知性の壮大さに比べて出ているテクストが少なくて、英文のものを合わせても松岡正剛とかのほうが余程出している。その井筒が珍しく対談したのは司馬遼太郎であって、その対談をはじめて読んだとき異世界を見た気分に落としてくれたので、部分的に引用してみる。

司馬:ところで、井筒先生はお若い時から、古典はすべてその国の言葉で読むという方針でやられていたようですね。
井筒:そうです。それは、やりました。
司馬:どこかで呟かれている言葉を活字で読んだことがあるんですけれども、文明を興した言葉というのは、みな抵抗がある、とおっしゃっています。ヘブライ語も、ギリシア語も、アラビア語も、そしてサンスクリットも。その中で、アラビア語が一番素晴らしい。それから見れば、英語、フランス語、ドイツ語は平凡だとおっしゃった。「平凡だ」とおっしゃられたら、こっちがまいってしまいますが。(笑い)
井筒:若い頃の私には、身の程を知らぬ大口を叩く悪癖がありまして、「平凡な」、つまりほとんど抵抗のない、英独仏のような近代ヨーロッパ語などは外国語とはどうしても思えないなんて言い散らしていたものでした。要するに言語的にはあんまり簡単過ぎるというわけです。
司馬:(笑い)ははあ。
井筒:だから、それを難しいなんていう人の気持ちがわからない。もっともそんな頃でも、近代語のうちではロシア語の場合には少し抵抗がありましたけれど・・・・・・。
司馬:そのロシア語における抵抗は別として、アラビア語、ヘブライ語、ギリシア語における抵抗というのは、快いものでしたか。
井筒:それは素晴らしく魅力あるものでした。挑戦的というか、難しければ難しいほど、おもしろい。だけども、前にも申しましたようにアラビア語だけはあんまり難しくて、ちょっとまいりましたね。
(中略)
井筒:それはそうと、司馬さんは蒙古語を初めにお選びになりましたね。私、いつも司馬さんのことを考えると、おもしろい結びつきじゃないかと思うんです。私がアラビア語をやって、司馬さんが蒙古語を第一の外国語として学習なさったということは、ひとつの共通点といったものを感じます。
司馬:月とスッポンを比べているようなもので、それはありません(笑い)。

この引用は最近出版された『コスモスとアンチコスモス』に収録されていて、古書なら『十六の話』に収録されている。



井筒というのは口だけ達者ならまだよかったのだけれど、そこに達人並みの修練というか、技能が付いてきた人だから尚タチが悪い。笑
年内には主著である『意識と本質』について書けたらいいなと気を重くしているが、彼が最後まで挑んだのはグローバルな形での世界思想なるものを創り上げるというものだった。また、彼は旧制青山学院中学に入学し新約聖書に触れ

Εν αρχη ην ο λογοs,και ο λογοs ην προs τον θεον, και θεοs ην ο λογοs.
(はじめにことばがあった。ことばは神と共にあり、ことばは神であった。)

に出会ったという。それにひどく打たれた彼は、言葉(のちに「コトバ」と術語化)が世界を分割するのではないかという面から、世界の言語をすべて吸い尽くしてやろうという発想に至る。それが司馬遼太郎との対談のアレである。

この言葉が見えている世界を分割するという発想は、最近の認知科学研究分野で言えばバイリンガル話者は、使う言語によって対象物の切り取り方が変わるという研究があったり、言語発達分野で分かりやすいのを出版している今井むつみなんかも同じことを言っているし、ソシュール研究の第一人者である丸山圭三郎も晩年の著書である『言葉とは何か』で同じ観点から論じている、というか丸山に関しては井筒のアラヤ識モデルがほとんどそのまま使われていた。

やっぱり井筒のことを書こうとすると遠回りしてしまってなかなか本題に入ろうとしない。グルグルと周囲の事を書いていて、本題については一文字も触れていない。この体験だけでも、自分にとってこの人に本について話すことがトラウマのようになっているのがわかる。彼の本を読んでいると「え、なにそれ」みたいな話がわんさか出てくる。体験的に言えば百科全書派のダランベールとかディドロ、現代でのミシェル・セールを読んだときにやや近い、やや近いだけで同じではない。ところでダランベールならディドロに書かれた『ダランベールの夢』という夢問答が面白い。彼はガチガチの唯物論者だったから当時のキリスト教徒からは随分と警戒されて出版されなかった経緯を持つ。内容は小難しい話もなるべく分かりやすくされていて、このあたりはジェイムズと並べて感じてしまう。ディドロは田口卓臣による『怪物的思考』が面白かったので、これは近いうちに扱おうと思う。ミシェル・セールは亡くなってしまったんだけど、調べたらもう1年以上経っていて、不思議な感覚に包まれた。

そうそう井筒は去年BS1で特集があったので、気になればぼんやりと見てほしい。

本題

これは完全な悪口なのだけど、宗教や思想の原典テクストは驚異の2300年間修正されていないレベルものがある。そんなのを「当時の文化理解をしたうえで読みましょう」とか当然無理なわけで。というかぼくらはどこぞの神様みたいに、ちょっと失敗したからって大洪水起こしたりしない。

それはそれとして、『大乗起信論』といういつ書かれていつ翻訳されたのかわからない、日本語版だと300ページにも満たない小冊子が(旧〇聖書とか1500ページもあるのにね)、事実上大乗仏教の論書としてずっと読み継がれているけれど、それを旧来の読み方で読む意義は果たして今どれほどあるのだろうという問題提起がある。そしてこの井筒の小論は、それに対するアンサーとして現代的な思想、視座から読み直す作業に入る。

それら無数の「新名」各々の性格や、それらの相互関係を考究する思想分野を、伝統的なイスラーム神学では「新名論」と名づけ、教義学の重要な課目としてきた。教義学的には「神名」は神的「属性」として取り扱われる。だが、現代哲学的に読みなおしてみれば、伝統的な「神名論(=アッラーの諸族性の研究)」が、結局、言語意味的分節論にほかならない、ということは指摘するまでもないであろう。ここで特に注目しておきたいのは、イスラーム哲学において、神的実在の自己顕在の全プロセスが、「アッラー」を第一段とする無数の「新名」の働きによって現成するとされていること、裏から言えば、すなわち、コトバの介入なしには存在の分節があり得ない、ということが、この上もなく明瞭に主張されている点である。

これはイスラム神学に対する、現代哲学からのアプローチ作業にあたる。これは神学の分野でなくとも、「唯~」と名の付く分野に関しては凡て同様のアプローチが可能であるということにもなる。最初に引用した

Εν αρχη ην ο λογοs,και ο λογοs ην προs τον θεον, και θεοs ην ο λογοs.
(はじめにことばがあった。ことばは神と共にあり、ことばは神であった。)

この部分の解釈を、完全なる無から無意識にのぼり、言葉によって形と意味と立場が与えられるという解釈から迫っていく流れになる。一応、井筒の起信論まとめ的には「無明」→「真如」→「妄心」→「無明」→「妄境界」→「妄心」→「執着心」のプロセスを辿っている。

画像1

引用:(https://society-zero.com/chienotane/archives/5346)

これは『意識と本質』にて提示された阿頼耶識システムで、それを言語による切り取り方をしているため「言語阿頼耶識」と呼ばれている。この意識のゼロポイントとはフロイトの言う「無-意識」ではなくて、易・道教でいうところの太極である。そこからフロイト的無意識にのぼり、言語化を経てM領域から表層意識にのぼる。結論から言えばシンプルなのだが、この阿頼耶識モデルを起信論のテクストに置き換え構造モデルを再構築するというのが、この大乗起信論を読み解いていく際のポイントになってくる。

この全体像の話は『意識と本質』のほうに譲るとして、言い訳が長いうちに筆を置いておくことにする。



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