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06.アメリカ哲学(鶴見俊輔)

できることなら失敗なんてしたくない

何度唱えたかわからない。失敗はノーコストなんて言うけれど、嘘だろう。失敗することで無惨な姿を晒す精神、これを見てノーコストだなんて思ったことはない。だから、あまり挑戦しなくなったのかもしれない。

「過つは人間の性」こそ、われわれがもっとも熟知している真理である。

プラグマティズムといえばジェイムズじゃなくてパースだろ、というパース復権主義的な考えがすこし昔にあったらしい。内容は兎も角、このパースという人の講演内容を見ると、失敗することへの恐れなどのコストを「真理」だとか「可謬主義(fallibilism)」という形で昇華している。fallible、すなわち誤りやすいということを前面に押し出していることから見ても、失敗の合理化を自分に言い聞かせないといけなかったウラ側が見え隠れして好印象だ。パースはアブダクション(古希:ἀπαγωγή 英:abduction)という手法を編み出したことで多分野に影響をもたらしているが、それは別記事に差し出す。

名声欲には勝てなかったパース

プラグマティズムというアメリカに根付いた思想が、パースでなくジェイムズやデューイから理解されがちなのは、プラグマティズムというものをちゃんと論文にして世の中へ発信したのがその時ジェイムズだったという原因である。ジェイムズはパースの教え子だけど、そのジェイムズがプラグマティズムをアメリカに発表して、かつそれがアメリカ全体に受け入れられてしまったものだからジェイムズに対して「おれがお前らを育ててやったんだぞ」と言わんばかりのお爺さんのような小言をぶつけたりしている。その小言に対する言い訳として「自分は人と会話することも少なく、妻とはフランス語で会話するわけだから英語のニュアンスを間違って使ってしまった可能性がある」などと供述していた。
しかしそんな人間味のあるパースは今なお通じるであろう考察をした。

われわれが考え始めるのは、信念体系の一部分がぐらぐらしてきて、疑わしくなる時である。ぐらぐらした信念ではなぜ困るかといえば、これらによって行動を定める事ができなくなるからだ。信念とは、それに従ってわれわれが行動をなし得る用意のある考えであるが、ぐらぐらした信念の場合には、それに従って行動する用意なし、ということになり、その事柄について行動をたのまれたら大いに困るのだ。そこで、一度疑わしくなった信念は、速やかに再建することを要する。
信念。それに従ってわれわれが行動する用意ある考え。「用意ある」という言葉につまづく人があるかもしれない。「用意ある」という言葉は、「癖のある」「習慣のある」でおきかえるとはっきりする。
信念が疑わしくなったときにわれわれが困るのは、われわれの習慣がぐらぐらしてくるからだ。毎日の生活における行動を律するために、われわれは習慣を必要とするのだが、ぐらぐらしている習慣の代わりに、もっとしっかりした週間を新たに作らなくてはならぬ。新しい信念の探求は、新しい習慣の形成への努力である。

いかにも合理主義的な発想である。

現代のアメリカにも生きるジェイムズ

WW2以後もアメリカの思想的土壌を保っていると言われるのがジェイムズである。かなり多方面に活躍した彼だが、特に顕著だったのは教師としてのジェイムズだったらしい。とにかく専門的な内容であったとしても、素人がきいて面白く思うまでは直さなくては気が済まなかった。だから、そんなジェイムズ以降の論文は、スラングなどを混ぜたりすることで学問と日常生活との距離を狭めたものが増えた。これはプラグマティストとしての彼の立ち位置、ひいてはプラグマティズムという学問の在り方を示していて、日常の活動、市井の生活というものから思想が成り立っているのだと自らの態度によって示している。

「(哲学は)日常見なれている物をも、何か不思議なものであるかのように新鮮な感覚をもって眺めたり、世に不思議とされているものをも、あたかも当たり前の事であるかのようにあしらったりする。ちょっと取り上げて見たり、またおろして見たり、物をまったく自由自在に手玉に取ることができる。哲学の精神は、あらゆるもの、あらゆる事のまわりを、身軽に飛んでまわる遊戯の気分に満ちている。それはわれわれを、誕生以来の頑固な独断の井睡りから揺り起こし、がりがりに固まったわれわれの偏見をうちくだく。」

多方面に活躍した彼であったが、実際の起因は今でいう「実存的不安」だったようである。不安というナマの形、それは主観的に味わう一種の禍ともいえる。現代でも似たような話は枚挙に暇がない。その人という個体にとって危惧される物はさまざまである、しかし共通するのは「その人にとって耐え難い」ということであり、ボタンを押して解決するような話ではないということである。不安を打開するために、人は考える、思索する。それこそがジェイムズにとっての思想であり、形而上学的であることが我慢ならなかった(我慢できるならそれは不安ではない)。「行動」「個人」「肉体」「興味」「自由」「未来」、これを頼りに彼は研究へ向かった。
エリック・ホッファーと見並べても良いのかもしれない。彼もまた、生粋のプラグマティスとである。

日本人とプラグマティズム

プラグマティズムとは一体何だったのかと言われれば「思想家によって違います」という位置づけになってしまう。特に哲学という領域においては、実際的な問題を扱うのは本当に最初くらいになりがちで、あとは思弁的になってしまう。ただプラグマティズム全体として了解されていたのは「考えは行為の一段階」であるという点である。それを倫理性に拡張したのが功利主義であるし、言葉の意味論・記号論方面に拡張して、行動に移らない考えは無意味だから追い出そうとなったのが実証主義、そして考えや行為は属人性を持つ以外に、環境や生理的な条件も持っているはずだという自然主義ということになる。だからプラグマティズムという分野は、ドイツ哲学のように体系づけることが困難であるゆえ、歴史的記述や専攻的記述になることが多い。

WW2以降、敗戦国となった日本にアメリアからプラグマティックな思想含めてまるっと輸入されたにもかかわらず、どうも馴染んでいない。ポスト・分析哲学とかの明らかに英米系の哲学があるのに、日本でネオ・プラグマティズムはあまり聞かなかった。事実、ぼくの場合は伊藤邦武の「プラグマティズム入門」とか2015年の「現代思想 なぜいまプラグマティズムか」を見るまで、プラグマティズムが日本で論じられていることに気付かなかった。「日本版プラグマティスト一覧」みたいなのが出来ていてもいいような気がするくらいなのに、なぜか出来上がってい。

これは、哲学じたいが学問っぽい学問になってしまった日本に原因があるらしい。哲学で人生不可解になってしまう大学生がいる日本、「○○の哲学」に類する人生論的な本があり得ないほど売れる日本。そういう日本がプラグマティズムと付き合うには、哲学がニセ学問であるということを認める必要がある。哲学を除く学問には対象にアクションを起こすための厳密な論証がある。しかし哲学という分野の、特に人生だとか、考え方などになってくると、個々人の思い込みや好き嫌いが入ってしまうから「君はそう思ってるんだね」以上の体系を持つことができない、それがニセ学問のゆえんである。

しかしながら、学問という領域と実践(生活)とい領域の狭間がまだまだ深い以上、その橋渡しを何かが担わなければならない。それがニセ学問ではないのだろうか。学問という肩書がなくとも考え、過ちを認め、分からないものにちゃんと分からないと言える場所が必要である。近年、在野研究というものが表立ってきた、いやもしかすると昔からあったのかもしれないけど、ぼくが目にしたのは最近だ。これは先ほど挙げたエリック・ホッファーを筆頭とするものであった。
「素人は口を慎みなさい」みたいな投稿が最近Twitterで行われたが、そういうのが出てくる以上、日本の学問観のレベルというのは推し測られてしまうように感じる。個人的に。素人の考え方も尊重される、それはニセ学問でなければ成り立ちづらい部分でもある。だから、生活と哲学をつなぐ話を素人たちで作り上げていく必要がある。これはプラグマティズムが生まれた瞬間、すなわち「形而上学クラブ」ということであるのかもしれない。

ぼくたちは学問することで生きているわけではない。生活して、働いて、考えて、寝ている。普段の生活というものに思索が根差し、共有され、体系が生まれたりして、新たな生活が生まれたりする。そこにプラグマティズムの在り方が刺さってくるのではないだろうか。

今回の記事内容は「アメリカ哲学」。

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