「誰にでも優しくしなさい」という道徳観が余計な悩みを生み出している
エナジーメディエーター 武之と申します。
世間には、「人を嫌ってはいけない」という謎の風潮があります。
人がだれかを特別に愛することができるように、誰かを心から嫌う気持ちだって存在するはずです。
同じように、好きになる理由がない場合もあるので、嫌いになる理由が見つからないこともあります。
でもなぜか、同じ空間にいると嫌な気持ちになる。
世間は嫌いという気持ちが存在することを受け入れてくれません。
「人を嫌いになってはいけない、誰にでも優しくありなさい」という道徳観は、人々を苦しめていると思うのです。
いじめっ子と仲直りさせられるいじめられっ子
誰とでも仲良く、という間違った道徳観が人を苦しめている例として一番わかりやすいのが、これです。
教室の中に存在しているイジメられる側は、存在が気に食わない、臭いなどとわけのわからない理由を付けられて、精神的または肉体的に暴力が振るわれます。
初めの方は、わけがわからないので無視し続けていたとしても、次第にわけのわからなさが不満に変わり、怒りに変わり爆発します。
子供は予想以上に陰湿なので、被害者側が怒りを爆発させるなどしてサインを送らないと、大人は気が付きません。
そして、対処方法も杜撰です。
双方の話を聞きますが、明らかに加害者側が悪い場合であっても「互いに、いがみ合っている関係性が存在するのはよくない」というアホみたいな道徳観によって、仲直りをさせられます。
つまり、「仲直りしたのだから、今までの出来事はノーカウントでいいね?」ということです。
いいわけねぇだろ
そもそも、いじめた側は、本能的に嫌な気がするからいじめられた側に手を下したわけです。
そこに論理は存在しません。
被害者側も、さんざん暴力を振るわれたわけなので存在を受け入れることなどできるはずもありません。
なので、解決策としては精神的・物理的に距離をとることが必要なのです。
この考え方は、「全員仲良く」を掲げているお花畑系教育者どもには浮かんでこない発想です。
人が人を嫌いになることは決して悪いことではないのです。
例を挙げればきりがありませんが、
このように、人が人を嫌いになることを否定することは、存在しなくてよい悩みを生み出すことにつながるのです。
他人を嫌いになってもいい
人が人を嫌いになるのは構いません。
嫌いな人は無理やり好きになる必要もありません、
ただし、それを理由に人を傷つけることは正当化されてはいけません。
嫌いであると感じたら、視界に入らないように努力をする。
物理的にも精神的にも自分のエリアに入らないように気を付けておく。
それによって争いは起こらなくなるのです。
平和な世界を作るのは、万人への無償の愛などではなく、争いが生まれないような環境づくりにあるのです。
to be continue...