植本一子『家族最後の日』(太田出版)
『かなわない』を読んだときの、ざらっとした読後感が後を引き、続きを読みたい、という気持ちになり、『家族最後の日』を手に取る。植本一子という写真家が家族の中で葛藤しながら、外へ出ていく様子を書いているのだが、家族なしで彼女は成り立たない、という感じがあるにもかかわらず、彼女にとって家族は重く、逃げ出したくなるような、でも本質的に逃げたいと思っている訳ではない、そんな存在のようである。『かなわない』の中でカウンセリングを受けた結果、自分の成り立ちを自分なりに診断し、その結果として、実家と故郷を捨てる決意をする。離れて思っている時にはそこまでしようと思っていなかったのが、久々の帰省により、実家は(特に母は)接することで自分をますます辛くするだけの存在であると認識し、喧嘩別れのように帰省を打ち切って実家を飛び出し、義絶する。その決断についての迷いはこの本の通奏低音となっている。
また、夫の家族との絡みもまた彼女にとっての枷となっている。自死した義弟、同居していた父親は取り残され、ことあるごとに夫の元を訪ねる。自分の親とは違う形でまた拒否感が湧く。
でもそれならば、家を飛び出し、自分で選んだ友人と付き合う日々が家族と生きる生活より貴重なのか? 夫が病に倒れ、長期入院することになり、これまで家のことについてどれだけ夫に頼ってきたかを強く認識する。人に頼り、ベビーシッターを頼み、仕事をし、時間の許す限り外に出ていくが、はっとそうした自分の行動のために夫がどれだけ犠牲を払ってきてくれたかを認識する。認識はしているが、それでも彼女は一人の無頼派だ。無頼派というとわたしが思い出すのは太宰治の「桜桃」で、妻子をないがしろにし、家庭に金を入れずに好き勝手遊んでいる作家の我儘さに、初めて読んだ中学生のわたしは驚き、こんな人がいるのか、と呆れたが(でももっとすごい人も世の中には沢山いるのだろう)、現状を認識し、誰かに何かを押し付けてきたことを認識し、その誰かが不在になればある程度は代わりを務めるがなお、その状態に疲弊し、逃げ出したいと思っている彼女は無頼で、その無頼さが彼女を輝かせている面もあるのだろうと思う。
『かなわない』が2014年位までのウェブ日記で、書き下ろしの『家族最後の日』で、夫の闘病を日記形式で記録しているのは2016年夏からである。その間に子どもは成長し(上の子は小学生、下の子も年長さん)、子どもの非論理に振り回される頻度は気が付けばかなり下がっているが、それでも子どもがいることで制限されることの多さを、夫の不在によりあらためて認識する作者。しかし、退院してきた夫と子どもとの暮らしもまた難しく、体調を崩して夫が病院に戻るとそれでほっとする自分に気づく。じゃあ自分にとっての極楽とはどういう状態だと彼女は思うのだろう。ユートピアはどこにもない場所だからこそユートピア? 読めば、別にそんなユートピアに行きたいと思っている訳ではないこともわかる。こうありたい、というイメージがはっきりしている訳ではないが、疲弊状態から脱出したい、写真を突き詰めたり、文章を書いたりしたい、という欲望と現実との相克の中で彼女は生きていく。そして、思った以上に進行している夫の癌に、夫のいない未来、ということも考える。その気持ちがダダ洩れで、子どもまでもが父親がいなくなった暮らし、ということをイメージしたりする。
消費のアンバランスさ(自分の服はデパートで新作を買い、子どもの服はバザーの詰め放題で買ったり)とか、自然食品に興味を示しつつ、疲れ果てた夜の食事は冷凍食品だったりとか、暮らしの細部がリアルで他人の生活を覗いているような気持になりながら読む。子どもの運動会の日は仕事を入れないようにしたが、雨天順延のことは考えなかったとか、その辺のスケジュール管理能力が、夫の看病のスケジュール調整の不手際とも重なり合う。友人の厚意、それがうまく響くときとうまく響かないときがあるその落差とか、人間関係にうまく甘えられるときとダメダメなときがあったりとか、様々な矛盾、葛藤のなか突き進む植本一子。家族最後の日、と言いながら、本当に夫ECD(石田さん)が亡くなるのは更に1年以上先のことであり、その間に更に色々な体験をし、一方で写真家としてのキャリアも充実していった筈。家庭人としての無頼派は、どのように突き抜けていくのか。これは、現代の私小説なのだなぁ(小説でなくすべて実話? なのかな?)と思う。