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【センゴクに学ぶ事業承継#1】武田信玄と社長代理補佐心得兼取締役 武田四郎勝頼

平均年齢60.1歳

 2021年、帝国データバンクが94万社を対象にした、日本の経営者の平均年齢です。
 このぐらいの年齢にもなれば、後継者を決めて、事業承継も視野に入ってくるところですが、社長交代率は3.8%という水準です。
 仕事柄、事業承継の現場に接することもありますが、上手くいかない要因として、2つの共通項があるように感じます。

事業承継が上手くいかない会社に共通する2つの理由

1 大殿(社長)が生涯現役

 社長として生涯現役です。会長、相談役になっても威勢は衰えません。社長を無視して強権発動です。
 社長の言い分としては、後継者候補に実力がない、頼りない、心配ということがあるのでしょうが、後継者側も守ってもらっていては、いつまでも実力がつきません。
 部下や周囲も後継者ではなく大殿の顔を窺うようになります。
 そこで大殿が言うセリフは「俺がいないとやっぱりダメだ」で、現場に降臨し続けます。悪循環が続きます。
 後継者は、いつまでたっても組織を掌握できません。

2 後継者を決めてない

 これは、後継者であることを公言していないことも含みます。
 会社を子供に継がせるとは言うものの、社員や現幹部、取引先に周知していなかったり、社長仕事を任せていない。財務状況を教えていないというケースもあります。

 現代風に置き換えてケースとして学んでみたいと思います。

武田家

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山梨県甲府市に本社を置く18代続く名門企業。
周辺地域の中心的存在であり、名門一家。

武田信玄(現社長)

 18代目。
 21歳の時に前社長(信虎)を追放。以来、社長に就任すると、営業(武力)と権謀術数を武器に隣県(長野、静岡、群馬、岐阜)へ積極的に進出。会社始まって以来の最大シェアを獲得する。
 人心掌握マネジメントにも長け、
  人は堀
  人は石垣
  人は石垣

 の名言も残す。

武田四郎勝頼(四男)

 19代目(仮)。
 オラオラ系幹部。母方の実家のコネをフル活用し、諏訪衆というプロジェクトチームを率いて各地を転戦。
 長男、次男、三男は経営にタッチできない状況であることから、次期社長と目される。
 一説には信玄よりも戦の才能はあったとされ、突破力もピカ一。

きっかけは社長の去就

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 全国シェアを狙うべく、社長は西上作戦を発動します。
 この頃、全国で大きなシェアを持っていたのは、織田信長。そして、協力企業の徳川家康がいます。
 シェアが大きいとはいえ、人口が多い地域の商売と少ない地域の商売では勝手が違います。(食べログ点数3.5でも、都会の3.5と地方の3.5とでは明らかに味が違うのと同じ現象。)
 人口が少ない地域で鎬を削ってきた武田勢の営業力、商品力は凄まじく、徳川があっという間にボロ負けします。
 最大シェアの織田も滅亡を覚悟するなど、武田マークが全国区になるかと思われたその時、歴史は動きます。
 社長の容体が急変します。胃癌だったようですが、そのまま社長は帰らぬ人となってしまいました。

ファッ!?な後継対策

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 社長は今際の際でも、後継者をはっきり決めていませんでした。
 遺言では
 ・自分は死んでないことにする(登記はそのままにしといて)
 ・社長は孫(6歳)。成人したら代表取締役登記してね。
 ・勝頼(四男)は取締役のまま。孫が成人するまでの後見補佐よろしく。
 ・勝頼の肩書は陣代(社長代理補佐心得兼取締役)とする。
 ・当面はライバル企業の上杉謙信を頼れ。奴は漢だから大丈夫。
 と伝えています。
 社員数5万人とも云われるグループ企業のトップの遺言です。
 ハチャメチャが押し寄せてきます。
 これでは、遺された方はたまったものではありません。

崩壊への歯車

まず、遺された勝頼は頑張ります。
 永世平取w
とか言われて黙っていられません。
 父親を超えるべく、積極的に他エリア(愛知、浜松、静岡)への進出を繰り返します。持ち前のイケイケオラオラな営業力をフル活用し、一時期は先代のシェアを超えることに成功します。

 もちろん社内には、この状態を危惧する声もあります。
 先代についてきた、生え抜きの幹部、関連企業たち。
 まずは、勝頼を中心に武田として一枚岩となることを進め、内部留保を高めることを提案します。
 外に出るより、まずは中を固めてからという尤もな声です。
 イケイケオラオラ路線な勝頼を諫めようとしますが、その頃には勝頼派ともいえる若手取り巻きが出来ていました。
 しかも、勝頼の代から連戦連勝、負け知らずですから勢い十分です。
 彼らは、慎重戦略を提案する譜代幹部たちを年寄と一蹴し、勝頼から遠ざけていきます。

そして歴史は動く

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 イケイケオラオラでシェアを拡大してきた勝頼ですが、その状態を冷静に観察してきたライバル企業がいました。織田信長と徳川家康です。
 先代にこっぴどくやられた信長と家康は、次の代のボンボンの頃にシェアを奪回してやろうと意気込んでいました。
 さらに、勝頼のオラオラ路線は、実は焦りの裏返しであることを見抜いていました。若手と古株の間で割れていることもわかっていました。
 このチャンスを逃さない彼らではありません。念には念を入れて、勝頼の3倍以上の戦力を以って、決戦に挑みます。
 そして結果は史実のとおりです。
 国内最強と云われ、武田の至宝と言われたベテランや優秀社員たちは、織田・徳川が作り上げたシステムの前に完膚なきまでに敗北しました。
 勝頼のやりたいようにやらせ、甘やかしてきたのは我々の失敗と、先代以来の幹部たちも、責任をとって悉く討ち死にします。
 先代が何十年にもわたり築き上げた人、モノ、名声は1日で消失します。

そして誰もいなくなった

 歴史的勝利を収めても、信長も家康も、武田のシェア奪いには動きませんでした。
 ここまでくれば、放っといても武田が自壊すると見ていたからです。
 読み通り、武田の凋落がはじまります。
 武田からは、櫛の歯が抜け落ちるように、また1人、また1人と社員が去っていきます。長年に渡って歩んできた協力企業も、ライバルの信長、家康傘下に入り、シェアが縮小していきます。
 一部生き残りのエースたち(高坂弾正、真田)もいましたが、既に少数派意見です。勝頼側近の大きな声に封殺されていきます。
 その後は求心力を得ようと大きな箱物(新府城)を作ろうとしますが、結局上手く行きません。
 親類の穴山梅雪には静岡エリアごと徳川に事業譲渡されるなど、本店の山梨県エリアまで追い込まれてしまいました。
 最後には幹部(小山田信茂)にも裏切られ、天目山にて最期を迎えます。
 これにより、18代目、19代目にして最大シェアを誇った武田は、急転直下、滅亡してしまいました。

ときは流れて令和

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 武田家のケースで見てきましたが、如何でしたでしょうか?
・商品力に強み
・ベテランで優秀な社員が多数所属
・協力企業の層が厚い
・エリアの名門企業
・飛ぶ鳥を落とす勢い

 だったとしても、方向性が定まっていなければ、あっという間に凋落するしくじり例をお伝えしました。

まとめ

1 大殿(社長)は元気なうちに引退

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 徐々に権限を委譲するのがポイントです。
 これは社長だけの問題ではありません。同年代の幹部も同様です。後継社長含め若手幹部の育成、権限移譲が必要です。
 そしてそれは社長や幹部の目の黒いうちがベストです。
 若いがゆえに、失敗することもあるでしょう。
 敢えて失敗させて、フォローする。目の黒いうちならいくらでも立て直しができます。
 失敗は成功の母。得難い経験をさせることができます。
 亡くなってしまったり、体力が落ちてしまった状態で引退したら、その後の若手失敗という経営の谷に耐えられません。

2 後継者を内外に知らしめる

 ライバル企業や独立の機会を狙っている従業員にとって、後継者を決めていないという状況は、チャンス以外の何物でもありません。
 後継者を決めたとしても、全てを掌握するには時間がかかります。
 内部での人間関係のほか、取引先が今までと同様についてくるとは限りません。契約内容が改悪されることもあり得るでしょう。
 そして、後継者本人に自覚がないということもあります。
 このままでは、ライバルたちの養分まっしぐらです。
 ・内外に公示すること
 ・財務内容を開示すること
 ・マイルストーンとスケジュールを決めること
 は、戦略的に行う必要があります。 

 日ノ本最強と謳われ、栄華を誇った武田家ですら、後継者の失敗で凋落しました。
 後の世に暮らす我々は、これを教訓として、行動に落とし込むことが大事です。

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