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(私のエピソード集・16) 娘と料理

娘が高2の夏、友だち6人と桧原村の我が家の山小屋に、2泊3日で泊まったことがある。その村には、食材を買える店はないので、八王子で買いこんで、出かけて行った。

娘が帰って来て、最初に言った言葉は忘れられない。「お母さん、今までちゃんとごはんを作ってくれてありがとう。私にも作らせてくれてよかった」という意味のことを言ったのだ。

何を言い出すのかと驚いて、聞き返すと、6人のうち2人しか料理を作れる人はいなかった。だから3日の間、その2人で作るしかなかった、という。

友だちのひとりは、家には包丁とかまな板がなくて、食事をまともに家族そろって、食べたこともないそうだ。毎日、スナック菓子やパンとか、買ってきた弁当などを、それぞれが好きな時に食べるのだって。

娘は家庭ごとに食事のあり方が、違っていることに、たいそう驚いていたが、私も現実に身近に、そんな家庭があるのだと驚いた。

当時、我が家は、夫の母と姉、双子の高校生と中3の次男と、私たち夫婦の総勢7名、弁当だけでも、私が6人分作っていた頃だった。朝食の準備は、義母と義姉が担当してくれて、私は夕食と弁当を受け持っていた。子どもたちは食べ盛りではあり、何につけても、大量に作らなくてはならなかった。

それまでに、我が娘ながら感心したことが二度あった。ひとつは、中2の頃、娘が「魚を調理したいから教えて」と言い出したことだ。

私はサバを2本買ってきて、まな板2枚、包丁2本を用意し、娘は私の手本どおりにまねをして、三枚おろしにさばいた。その後、アジやイワシ、サンマその他にも手を広げた。

もうひとつは、娘が高1の夏、私がアメリカに住む姉宅を訪ねて、2週間留守にした間、娘が夕食を引き受けてくれたことだった。

帰宅して驚いたのは、その間ずっとノートに記録してあって、毎夕4~5種のおかずを作ってくれていた。「これは失敗」とか「おいしくできた」とか、自己批判も記してあって、楽しんできちんと対応してくれていたのだ。

高校生の頃の私自身は、台所に立ったことは一度もなく、読書や机に向かうばかりだったから、ほんとに驚きだった。

自然ななりゆきで、娘はある女子大の食物学科に進み、資格を得て、現在は栄養士として働いている。時折訪ねていくと、決して豊かな生活ではない中で、食材を無駄なく使い、工夫して幾皿も食事を用意してくれる。大学生の二人の子には弁当持ちで通わせていた。今はもう社会人となっているが。

ついでながら、娘と双子として産まれた息子が、高校の最上級生のある日、ぽつんとこう言ったことがある。「Wちゃん(妹)は、いいな。料理が何でも作れて。僕はなんにもできなくて、生きていく自信がないよ」と。

そうだったのか! 我が家は台所に入れる人が、私、夫の母と姉、娘とたくさんいて、たしかに彼が割りこめるのは、ぎょうざを150個包む時の、手伝いくらいのものだった。

そこで、材料をいく種類か準備して、料理本といっしょに持たせて、桧原村の山小屋で週末を過ごしておいで、と送り出した。受験勉強のついでに、の意味でもあった。

理科系の彼は、まるで実験するみたいに、本の文字に従ってやってみるのを、楽しむに違いないと思ったからだ。それを何度かくり返した。

現在は二人の子持ちだが、料理によってはパパでなくちゃ、となるらしい。食事は生きる基本だし、親子をしっかりと、結ぶことにもつながるようだ。
(最近は土日の夕食担当となっていて、自宅勤務が多くなるにつれて、担当の日も増えているようだ。)

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