7章-(4) ネムノキの森で
自分は、これからどうしたらいいのだろう。香織の目的って・・? 何の ために勉強してるか、だって? 志織お姉ちゃんみたいに、英語習得目指 して、アメリカへ行くなんて、とんでもないし。好きなのは編み物するときの、穏やかになれる気分と、仕上がっていく喜びと、出来上がった時の誇らしい気持ち。それから、最初に製図をするときの、あれこれ書き散らして、迷って悩んで頭抱えるけど、なんとか落着かせる過程も楽しく思える。 でも、それはグレゴリーの場合とは違って、娯楽か趣味に過ぎない気が して、香織の目的と言えるのかどうか・・。他に何かあるかなあ・・。 ユキさんみたいな〈作家〉なんて、お月様ほど遠い話だわ。〈編み物作家〉って、あるかなあ?
その時、ベンチがかすかにきしんだ気がした。誰か来たかな? 物音は しない。香織はハンカチの下で、息をころした。森の葉ずれの音がさわさわと鳴っているばかりだ。
そっとハンカチの隅を持ち上げてみた。ドキッ。ほんとにいた。向こう端に大きな結城君が、うつむいて一点を見つめて、身じろぎもせず・・。
どうしてここに? 昼日中になぜ? 香織にはつかめない。来て欲しくない時に現れる気がして、そろっと背を向けた。
なぜ黙ってるのだろう。いつものからかいも軽口もない。まるで彼自身に 悩み事でもあるみたいな・・。
知らんぷりしていたいのに、背中が気になり、またそうっと向きを戻した。
「君にも少しは、わかったろ」
結城君がぽつりと言った。胸の深いところからひびいてくるような、重々 しい声だった。香織はハンカチの中で、聞き耳を立てた。
「どんなに好きだって、愛してたって、いつかは別れがくるんだ、って」
え? 結城君は香織が、失恋したと思ってる? 直子と同じに? 香織は ハンカチを手にはずして、結城君の方をそっと見た。。
「どんなに祈っても、願い通りにいかないこともある、ってことをな」
結城君がふいに顔を上げて、香織の方へ向いた。暗い怒りさえこもったような目。それが香織を見つめているうちに、ふっとやさしい色に変わった。 つつみこむようなやさしさが、にじみ出してきた。香織はその目に捉えられ、結城君の思いがその目からあふれ出て、香織の胸に染み入ってきた。
(香織、つらいだろ、今初めて喪失感を味わってるんだろ。どれほど愛していても、いずれは別れがくるんだ。祈りも願いも無力にさせてしまう別れが・・)
結城君は妹とのつらい別れを思い返しているのだ。彼の心に刻まれた深い傷をのぞき見たようで、香織は胸を突かれた。
結城君はまた深い声で言った。
「だから、人を深く愛するのは止めようと、自分に言い聞かせて、気をそらせたり、ふざけたり、気楽にしようとしてるのに、おかしいよ、愛さずにはいられないんだ、止められないんだ・・」
その声には当惑の響きもあった。その目はまっすぐに香織に告げていた。
(愛しているのは、君なんだ。愛さずにはいられないんだ。君のそのまま、まるごとの君を・・)
言葉で聞いたのではないのに、香織は胸を熱くしていた。この人、本音で 言ってる、心の底から思っていることを、心に秘めていたものを、今打ち 明けてくれてる。妹としてではなく、香織そのものを! 何か、言わなくては・・。
「・・私、泣いてない。まだ一度も失恋したことないの。若さまが結婚できてよかった、と思ってる。だれかに聞いたの?」と、やさしくやさしく言った。
結城君がはっと息をのんだ。それから、突然ひざに顔を埋めたと思うと、 ほんの少し経って、吹き出した。やっとのように、言葉が出た。
「・・ハハ、まいった! 降参だ! 茶番だね! ハハハハハ・・」
それから笑いおさめ、時間をかけて身を起こしてこう言った。
「バレー部の顧問が、明日結婚式に参列で休むと、言い出してさ。ワンゲル登山の時の若杉先生と日野先生の結婚だと教えてくれて・・もう、てっきり香織は失恋したなって・・だって、目をかけてもらって、かなりのぼせてたろ。叱られて大泣きしてた日もあったし、何日もかけて、靴下編んであげたそうだし・・好きな人いるって、言ったろ・・」
香織までクフフフと笑ってしまった。結城君もつられて笑い出しながら、 それでもまじめにひと言加えた。
「笑い事でもないな、失恋を一度もしてないってのは、恋もしたことないんだよな」
「・・そんなことない・・」
「好きな人いる、って、誰のことだったんだ?」
「うっ・・言ってみただけ・・」
香織はつぶやいて、ふいに胸によみがえってきた・・その人のことが気に なってならないのも、ふっと思い浮かべていたり、会いたいなと思ったり、からかいでも皮肉でもなんでもいい、声が聞きたくなるのも・・思っただけでドキドキするのも・・。それが・・そう?・・そうよね、そうなんだね! 香織は今やっとやっと気づいて、つぼみがふわっと花ひらいたみたいに、 結城君を見つめて、ほほえんだ、頬を染めて・・。
ほんとに言ってくれたわけでもないのに、心に響いていた。ドジでものろまでもビリでも、そのまんまの香織を 愛さずにはいられないんだ、って。 ありがとう、うれしい、言えないけどうれしい! 香織もおんなじ、どんな時の結城君も好き!
ハンカチが香織の手から風に舞って、ベンチの下に落ちた。結城君がすばやく身をかがめて拾うと、あっと言うひまもなく、ハンカチごと香織をぐいと抱き寄せ、抱きしめた。香織もそっと手に力をこめた。
風の音がしている。そして、風のような気配がふっと顔に近づいた。
ああ、結城くん! あれは結城くん! 失神した闇の中で・・。
温かいものがそっと触れてきた。ふるえながら、そっと・・。香織の閉じた目に、涙がにじんだ。心はやすらいで、ゆったりと波に浮かんでいるよう だった。でも、胸はうれしさがじわじわとふくらんできて、はちきれそう。