「死」について
今回は、私自身の思考をまとめるため、頭の整理のために、文章を書きました。いつもの敬体ではない文体ですが、ご了承ください。
この記事を読んでくださった人にとって、「死」について何となく考えるきっかけになれば幸いです。
私は、来年大学を卒業し、いよいよ社会人となる。長かった学生生活ももう終わり、ついに社会で働く、社会の一員になるわけだ。
そんな私にとって、この2020年は、特別な年になった。
それはもちろん、本気で自分の人生の選択について考えなければならなかったということでもあるし、そのために自分自身の意志や信念について考える機会がたくさんあったことでもある。
だが、それ以上に私の心を大きく動かす出来事があった。
家族の死である。
14年間飼っていた犬が死に、その数か月後、遠くで暮らす祖父も亡くなった。
21年生きてきた中で、生き物の、それも生前親しみのあった者の亡骸を目の当たりにするという体験は、これが初めてだった。触れたのも、当然初めてだった。
亡骸に触れた時、生き物なら誰しもが持っている温もりは完全に無く、まるでぬいぐるみや人形のようであった。
「生きる」という状態と「死ぬ」という状態は、こんなにもはっきりと違うものなんだと感じた。しかし、肉体そのものの形状などは、生きていた頃となんら変わりはないものであった。
「死」を「魂が抜ける」と最初に表現した人はなんと表現力に長けた人だと思う。
まさに、ついこないだまで、生前故人を動かしていた「エネルギー」のようなものは消え、ただ肉体のみがこの世に残されている、というような感じであった。
お葬式の時は、あまり冷静に考えることはできなかったが、時間が経った今思うことは、私はどうやらその「エネルギー」が消えてなくなったあとの亡骸を直視することで、家族の死を一番現実的に感じたらしく、悲しくなった。
「死」というものは本当に不思議なものである。肉体のみをこの世に残し、エネルギーだけがすっぽりと消えてなくなる。これは、確かに生き物を「肉体」と「魂」に分けて考えるようになるな、と思った。
恐らく古の人々も、仲間の死に触れる中で、肉体からエネルギーが消えたことを感じ、「魂」という概念を用いたのだと思う。
そう思えば、これまで地球上に生まれたすべての人類、さらに生きとし生ける者のすべてが、「死」の恐怖と、場合には仲間の「死」を悲しむということを経験しているというのは、なんだか心強くも感じる。
飼い犬の時も、祖父の時も、亡骸に触れ、お別れを告げた後は、火葬だった。亡骸を乗せた台車が、火葬炉に入っていく時、その様子は「旅立ち」のようだった。
「死」というのは一つのゲートであり、「死」を通って生き物は次のステージへと進む。
そんな風に人々が考えるのも無理はないと思った。今までそんなことを本気で思ってなかった自分ですら、そう感じたからである。
亡骸が焼かれ、残った骨を目の前にした時も、やはり、そこには生前の面影はなく、そのことからも、肉体を捨て、次の段階へと進んでいったように感じた。
では、次のステージとは何なのか。それを人々は考え、あらゆる説が生まれたことが、世界にたくさん存在する宗教と関わってくるのだと思う。
一つ確かなことは、その先に何が待っているかは誰も確かではないこと。だから、人は「死」を恐れるということだ。そして、今のステージで徳を積むことで、次のステージでは「天国」などといった幸せが待っている、とする考えなんかも生まれる。こう考えることで、次のステージに対する恐怖は、今のステージでの努力に変えられるわけだ。
この考えの転換をもたらした諸宗教は、そういう意味でも本当に優れていると思う。高い知性を持つ人間が、こうした発想なしに幾度となく死に触れれば、死を極端に恐れ、現世の営みに集中できなかった可能性すらあると思うからだ。
だが、しかし私自身は、「次のステージで幸せになりたいから」という理由なくとも、今のステージを大切に生き抜きたいと思う。
二つの家族の死は、残された家族にとって、とても悲しいものだった。この「悲しい」という気持ちは、何も後ろ向きなものではなく、それだけ故人を想い、想われていたことの現れだ。肉体が焼かれてなくなった後も、残された者の記憶の中に、彼らは生き続ける。彼らとの楽しい思い出、想ってくれた記憶は、残された者がこれから生きていく人生で、時に糧になりうるだろう。精神的な影響力、エネルギーは、死んだあともこの世に残り続けるのだ。
祖父のお葬式の最中、周りにたくさんの花が飾ってあるのを見て、「ああ、おじいちゃんは本当に素敵な人生を歩んだんだな。」と思った。
あらゆる親族から、息子たちが働く会社などから送られた花々は、祖父が生前、この世に残した影響の大きさ、人々に与えた愛情の大きさを示しているように感じたからだ。
そんな祖父の旅立つ瞬間に立ち会えたことで、「こんな風に生きたい」と心から強く思った。
旅立つ瞬間まで、孫に生き様のお手本を示してくれるとは、本当に素敵なおじいちゃんである。