東京五輪随想 | 20210806 | #フラグメント やがて日記、そして詩。15
猛暑日が続いている。今日は蝉の声も聴こえない。あまりの暑さに蝉も鳴いていられないのだろうか。ふと、テレビをつけて五輪の中継を見ていると、テレビのなかから蝉の声が聴こえる。世界中に日本の夏の声が響き渡っていると思うとなかなか感慨深いものがある。
東京五輪がはじまってからというもの、それなりに競技を見ている。こんなにテレビを見たのは何年ぶりだろうか。そのぶん、テレビのコメンテーターや番組の構成などが気になって「なんだこれ」って思うことが増えて妙なストレスになっているのでミュート状態でテレビをつけていたりする。
とにかく暑そうにしている選手たちを見ているのは心苦しい。マラソンも札幌で行うとのことだが、連日35℃近い気温になっているというし、そもそも東京では照り返しを軽減する工事を道路に施したのではなかったのか。聞くところではあまり効果がなかったということだが、こうした工事費はいったいどうしたのだろうか。
東京湾を泳いでいる選手たちも見ていたら、茶色い水のなかを泳いでいる。これも、大腸菌が基準値を上回ったというニュースが数年前に話題になっていたが、あのあとどうなったのだろうか。貝を使って清浄化するという本当かどうかわからない対策も出ていたりしたが。ともあれ、どうしてあの海で人を泳がせるなんてことができたのだろうか。考えただけで鳥肌が立つようだった。
そんな光景が全世界に中継されているのだと思うと、とても悲しくなってくる。「悲しい」というよりも「恥ずかしい」という気持ちの方が強い。この「恥ずかしい」は、「自分」のことだから「恥ずかしい」のであって、他人を卑下したくて「そんな恥ずかしいことするな!」と言いたいわけではない。
もっと誇るべき「日本」はある。「自分」が帰属している社会で、世界に発信すべきものがある。けれども、そうした誇るべき「日本」ではなく、「金」や「政治」の論理にまかれて結局のところ、恥ずかしい「日本」をさらすことになってしまっている、そうした状況を許してしまった「日本」の有権者であり、まさに現役世代として、何もできなかった「自分」が「恥ずかしい」と思う。
開会式を見ていたときに日本の選手団が入場してきて、真っ赤な大ぶりのジャケットと白いパンツをみんなが着ていて、誰がデザインしたものなんだろうと思っていた。なんであんなに「旧態依然」としたスタイルのスーツなんだろうと。すると、昨日、CMで上戸彩があの衣裳は「AOKI」がデザインしましたということを宣伝していてその正体が知れた。Googleで検索すると「一人ひとり採寸した」ということが誇らしげに書かれていた。
イタリアはアルマーニ、アメリカはラルフローレン、フランスはラコステ。そのなかで、なぜ日本は「AOKI」になったのだろう。想像がさまざま膨らんでしまう(書くことは控える)。そもそも、グローバルに評価されているファッションブランドは日本にもいくつもある。
たとえばだが、日本選手団全員がヨウジヤマモトで闊歩してきたらかっこいいじゃないか、と思う。ちょっとボロみたいのを身にまとって、そこにメッセージとかが書いてあったりして、オリエンタリズムもそそる。そして、そもそも、「着物」という日本文化が持続可能なファッションを楽しんできたというメッセージも打ち出していけるんじゃないか。さらには、演出として森山未來がボロを着て五体投地をしたこととも響き合うじゃないか。それが、このコロナ禍の、そして、震災を含む、世界中のさまざまな災厄への「祈り」になり、それこそが「日本」の立ち位置として示す「物語」ができるじゃないか、なんてことも勝手に思っていた。
どうして、こうなってしまったのか。
どうにも、止められないなにかがあって、人々の意志するところではないところに帰着する、大きな論理というのか、渦のようなものがこの日本を覆っているような気がする。
この情念のうねりのようなもの。
それを、どうにか捉えること。そのもやもやしたものを一つ一つ結晶させていくことが、やらなければいけないことかなあと、詩を書こうと思う人間として思ったりもする。そんな大それたことができるわけではないし、そんなもの、おもしろいものではないのだが。
留まることを知らない猛暑
メダルラッシュに呼応するかのように
日々記録を更新していく感染者数
三つの台風の布陣
緊急事態宣言の拡大
どこへも行けない夏
どこかに行くと石を投げられる夏
「東京五輪開催」が国民の意識に与える影響を訴える人々と
選手団による感染の拡大はないとする政府の
頑なな、意識的な嚙み合わなさと
人の金メダルに何のことわりもなく噛みつくおじさんの唾液
東京湾の泥のような海
閉鎖された公園
一億総自宅療養の夏
東京五輪のおかけで「世界」を意識するようになった。
が、もうしばらくすると、身近な「職場」への影響も出てくる。そして、そのときにまた思うのだ。
どうにも、止められないなにかがあって、人々の意志するところではないところに帰着する、大きな論理というのか、渦のようなものがこの職場を覆っているような気がする。
なんてことを。