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鮎歌 #05 [エッセイ] あの日から、置いてきた〈時間〉──「THE BOY FRIEND」(2024)

※この記事は「THE BOY FRIEND」の多少のネタバレがありますので、視聴予定の方はご注意ください。

「ぼくは、友達が少ない。」

いつのまにか、自分のパーソナルな部分の話をするときには、少し誇らしいくらいにこんなことを言っているような気がする。それは、よく考えてみるまでもなく、他者の気を引きたいという、子どもじみた恥ずかしい思わくが裏側にあり、もっと言えば、他者と向き合うことを避けるための言い訳でもあったりする──。

そんな我が身を振り返るきっかけになったのが、Netflixの「THE BOY FRIEND」という番組だった。これは、男性同士のいわゆる恋愛リアリティショーだ。「TERRACE HOUSE」のような、オシャレなシェアハウスで、1ヶ月(?)、20〜30代の男性全9名が共同生活を行いながら、パートナーを見つけていくというのが一つの目的だ。今回は、おそらく千葉の海沿いの街が舞台で、ビーチやフェリー乗り場に行って、キッチンカーでコーヒーを販売し、仲間たちと親睦を深めていくというオプションがある。

もちろん、「恋愛リアリティショー」である以上は、恋愛をすることが目的ではあるのだが、本作では恋愛に発展しなくとも、それぞれのメンバーにストーリーがあるところがおもしろい。

たとえば、〈テホン〉という韓国人は、恋愛という点では印象は薄かったが、この番組に出演するものの、自身のセクシャリティについて両親にまだカミングアウトできていないという課題を抱えていた。

他の出演者たちは、どのような形にせよ、家族には伝えられている。〈テホン〉は、彼らからさまざまなアドバイスや温かな励ましをうけて、両親に伝える決心を固めていく。全体のストーリーのなかで見ると、地味なストーリーではあるが、実は、このセクシャリティの問題を、既存の社会の枠組みのなかで、どう位置づけていくのかを問うことも、本作の大きなメッセージでもあるだろうから、この〈テホン〉のストーリーは欠くことができないだろう。ぼくは、最後にはすっかり〈テホン〉のファンになっていた。

これはほんの一例にすぎないが、それぞれのメンバーに物語があって、最後まで見終えて、誰一人嫌だなあと思う人がいなかった。これまで見てきたリアリティショーでは少なからず、苦手な人くらいはいたのだが。それこそ、メンバー全員がいてこそ、「THE BOY FRIEND」という一つの美しい、青春と友情の作品だった。

きっと、運営も、これまでの「恋愛リアリティショー」の失敗を意識していたと思う。人間関係の調整と、見せ方ももちろんだが、そもそものゲームルール設定自体に工夫があったのではないか。

わかりやすく比較できるのが「バチェラー/バチェロレッテ」シリーズだろう。これは、一人の「男/女」を巡って、異性が争うことで一人のパートナーを見つけていくことが目的のため、「バチェラー/バチェロレッテ」の個人のカリスマ一つで、全体の盛り上がりが左右されてしまうというのがよくもわるくも特徴であると思う。

対して、「ボーイフレンド」には、そのような中心がない。強力なヒーロー/ヒロインなしに、それぞれの物語が進行していくのである。「バチェラー/バチェロレッテ」が、明確な勝敗が決まる「ゲーム」であるのに対して、「ボーイフレンド」はあくまでも「生活」である。

これは個人的な感想だが、「バチェロレッテ3」を見ていて、何か盛り上がりに欠けているように思った。ここには、撮影期間が短くなることによって、「恋愛感情」を持つまでに発展することが難しかった、といったさまざまな事情もあるが、そもそも、この「ゲーム」自体が、そろそろ限界なのかもしれないと思った。

そういえば、この「THE BOY FRIEND」の公開と同じころに、「パリ五輪」があった。ぼくはあまり競技を見ることはなかったが、女子ボクシングをはじめとしたさまざまな問題はニュースやSNSで聞き及んでいる。もはや、「国家」の名の下に、「男/女」に分かれて、勝敗を決するというゲーム設定が難しくなっていることと、「バチェラー/バチェロレッテ」の構造的な問題はどこかで響き合っているような気がする。

ともあれ、「THE BOY FRIEND」は、何がよかったのだろう。強力なヒーロー(ヒロイン)の不在という点では、「TERRACE HOUSE」も同様だった。むしろ、「TERRACE HOUSE」の方が、よっぽど中心がなかった。ルールとしては、「家」と「車2台」が与えられるという、ただそれだけしかなかったからだ。それゆえに、出演者が何かしなければ、何も起こらない(というタテマエになっていた)ことが問題になった。それはつまり、物語の進行には、話題になるようなアクションが必要となるからだ。

一方、「THE BOY FRIEND」では、定期的に運営からタブレット端末にメッセージが届くシステムになっている。キッチンカーで一緒に行く人を決めたり、気になる人の名前を書いたり、さまざまであるが、物語の進行は、基本的に運営が引き受けている。そのうえ、新メンバーが適宜入ることで人間関係の固定化を予防したり、キッチンカーのメンバーの選び方にも変化をつけたり、絶妙に場が淀まないように調整がされていたように見えた。それが、この作品の美しさに影響していたと思う。

ぼくは、本作を見ていて、こうした秩序の保持というのか、場のコントロールが、何かヒントになるような気がしたし、それがあるために、メンバーはそこでの「生活」そのものに集中できていたようにも思えた。もっと言えば、人と人とが向き合っていたと思う。そうした姿が、いまのぼくにとって、大切なもののようにも感じられた。

〈ダイ〉と〈シュン〉というメンバーがいる。この二人は、実に対照的な性格で、まさに〈陽〉と〈陰〉であり、それだからこそ、惹かれあっていく。しかし、〈シュン〉は、日ごと気分が浮き沈みし、〈ダイ〉はそれに振り回されていく。その起伏の激しさたるや、常人には耐え難いものであるはずだが、〈ダイ〉は、辛抱強く〈シュン〉を受け止める。

YouTubeにアップされたアフタートークで、〈ダイ〉が「逃げていたものから、逃げられない状況をくれた」「この人にだったら傷つけられてもいいかもしれない」と話しているのを聞いて、ぼくに必要なことはこれだと思った。ぼくたちは、逃げようと思えば逃げられる生活を続けている。仮に、一緒に住んでいたとしても、向き合わない、という意味で、相手から逃げつづけることはできるだろう。

一方、〈シュン〉を見ていると、自分を見ているようだった。どれもが、「自分を見てよ!」というメッセージを発している行動だった。なぜそうなるのかは、彼の出自を知れば納得がいくが、ぼくのなかにも〈シュン〉らしいものがある。だから、手にとるように〈シュン〉が発しているメッセージがわかった。

ただ、彼は彼で、素直に他者の助言に従って、成長もしていく。〈シュン〉も「コミュニケーションを教えてくれた」と言っているように、〈シュン〉が学んだことが、ぼくが学んだことだった。他のメンバーも、言うべきことははっきりと言って、お互いに「言ってくれてありがとう」と口にする。

恋愛には発展しなくても、「フレンド」になれる。この人にだったら傷つけられてもいいという人と、しっかり向き合う時間──。「THE BOY FRIEND」とは、そういう〈時間〉だったのだ。

「ぼくは、友達が少ない。」

そうやって、ぼくは自分の「弱さ」のようなもので、「自分を見てよ!」とメッセージを発していた。自分のなかにも本作中の〈シュン〉がいる。でも、彼らがきちんと大切な他者と向き合ったように、友人や、恋人や、家族とも、向き合って、大切にしようと思えた。誇るべき人たちを。

今日、ぼくはたった一人で、ランニングをした。8月の暑さが、グレーのTシャツをぐっしょりと濡らした。もう、走れないと思うところまできて、Spotifyで「THE BOY FRIEND」のプレイリストを聴きながら見た、遠くの夕陽が、何よりも美しかった。

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