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散文「谷崎潤一郎「懶惰の説」を読んで」

① 谷崎潤一郎「懶惰の説」を読んで、今日の環境問題のヒントとなるような箇所や観点を指摘してコメントせよ。

 御伽草子のうちにある「物臭太郎」を引用に出しているけれど、今日の二酸化炭素の温室効果を下げる考え、あるいは食糧危機問題に繋ぐことができるだろう。
世界よりみる平均地上気温は一八八〇年以降の長期変化傾向は一〇〇年当たり約〇・六℃の割合で上昇しているという。地球の大気は窒素と酸素が全体の99%を占め、残る微量の気体の内、水蒸気・二酸化炭素・メタンなどに大気の平均温度を上昇させる性質がある。
ここにある物臭太郎は〈物を作らねば食物なし、四五日のうちにも起き上がらず、ふせりゐたりけり〉とする。これはあくまで作り話なのでここまで徹底するのは如何なものかと思うが(この草子の結末は抜きにして)、ここに似たような形で谷崎は〈「寝てばかりいては毒だ」というが、同時に食物の量を減らし、種類を減らせば、それだけ伝染病などの危険を冒す度も少い〉と指摘している。これは人間ばかりでなく、ひょっとすると、環境にもよいことではないだろうか。谷崎がいうように〈カロリーだのヴィタミンだのと〉気にかけるより〈寝ころんでいる方が賢いという考え方〉があるとするなら、何より無駄なカロリー消費が起こらない。西洋人のように(あるいは現代の日本人も含まれるだろう)老人までもがビフテキを食い、テニスをして精力や体力を養うよりも、無駄な食事を取らない方が無駄なカロリーを消費することによる二酸化炭素排出量も食糧危機を免れる一つの示唆となるかも知れない。
谷崎はルーソーの〈自然に復れ〉という言葉を引き合いに出しているが、怠け者も極端にいってしまうとジャイナ教の無所有や不殺生のような片鱗も垣間見せられる。では、自然に復ることに日本人の懶惰は示唆を孕んでいるのだろうか。谷崎はこの説において再三、西洋人のように“人は文明人の理想に近づくように努力する”のではなく、日本人のように“幾分の物臭さや不潔さに愛嬌を感じ、自然の理に逆らおうとしない”ことを語っている。つまりは努力などせずにありのままに自然でいよ、ということが谷崎のいう懶惰であり、古式の日本人にはそれに共感できる特有の奥ゆかしさが含まれていたのであろう。
現代人の感覚と違い、声のプロでも日々、咽喉に気を使っているようでは謡っていても楽しくないのだから年を経るに任せて、そのときに応じた自分ならではの声を出せという。または、白い歯を作るくらいなら自然と黄色くなっていく歯の方がよいという。これらの努力が谷崎のいう通り、無駄であるならば、これは物資の過多を削減することができはしないだろうか。

② 〈食〉をテーマにした小説、エッセイ、映画を具体的に取り上げて自由に論ぜよ。

 本稿では古川日出男の『僕たちは歩かない』について、何故、主人公たちはシェフでなければならなかったのかということを論じていきたいと思う。この作品の梗概は以下の通り。
二十六時間制の異界としての東京に紛れ込んだシェフたちが厨房で互いを刺激しあいながら料理の創作に励むことから始まる。シェフたちの働く店に訪れる画家が二十六時間制の東京にいることを知り、料理を振る舞うことなどをして過ごす中で、シェフ仲間であるホリミナが事故に遭って冥界へと旅立ってしまう。シェフたちは画家から冥界への行き方を聞き、地面を決して歩かないことを条件に冥界へと向かう、一人一人と仲間が脱落していく中でシェフたちはホリミナと出会う。しかし、ホリミナは現世に戻らないと意志を貫く。そして、シェフたちは東京へと帰っていく。
 この作品の主格は〈僕たち〉であり、その中にホリミナを始め、カバヤマやテラワキといった人物が登場する。この〈僕たち〉という一つの集団が一人の人物のように現われてくる点から、そこにはシェフという共通点や二十六時間制の東京に紛れ込んだことによる一種のシンパシーを感じていることが読み取れる。登場人物たちが二十六時間制の東京に紛れ込むのは互いに違った方法であって、例えばホリミナの場合は、信号の赤が一瞬、黄色に変る。その方向へ向かっていくといつもより二時間多い東京に辿り着けるという。では、この異界としての東京は何を意味しているのだろうか。ホリミナが死んだ原因は黄色に変る信号の赤を夢中で追いかけていたら自動車に跳ねられた、というものである。また、異界の東京にいた画家という存在が冥界へ行く方法を(噂としてだが)詳細に知っていることや〈「もう一つの東京があるならば、あと二つや三つの東京は、あるはずだろう?」〉と発言している点から、これらの現世の東京、二十六時間制の東京、冥界の東京は互いに観賞しあわない互いにあるというだけの世界なのではないだろうか。
 主人公である〈僕たち〉は二十六時間制の東京で特に創作料理に励んでいる。ここから否応にも創作という言葉が引き出されるように思われる。また、作家の古川日出男は食べることは生きるために必要なことと感じていることをラジオにて語っており(※ウインドアンドウインドウズ第三回)、更にそれに関連して「歩行に関して地面に歩かされている感覚がある」と語っている。古川の小説にとって食と歩行は重要な要素であるが、この作品にはその要素がある。冥界へ行く条件としての〈歩かない〉というのは〈僕たち〉が歩くことができないという浮遊の感覚を持つことによって異界と現世の相違を現そうとしているように思われる。
 ここに現われる〈僕たち〉は何故シェフであるだろうか。終章である第五章において、ホリミナは〈ねえ、あたしは記憶を調理したの〉と語っている。記憶の調理とは、作品内のことで言えば、冥界を体験した死人としてのホリミナが生の世界に戻ることが理として適わないし、望まないことを示唆しているだろう。しかし、読者側からすると、記憶を調理されているのはまさに自分たちであることに気づかされるのである。そこから僅かに感じられてくるのは、作家として書く古川と、読者として読む我々の間には、まるでこの小説に書かれるような異なる東京のような奇妙な差異が自ずと生まれてくる。そのことから本稿では、古川は作家として、この作品を一つの創作料理として捉えており、また、作品を読む読み手との距離を意識して書かれているのではないかと考える。


初出
大学時代のレポート。

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