チョコレイト
中学の頃、実家で飼っていた猫が死んだ。
交通事故だった。
いきなり「死んだ」なんて言われても、そんなつもりじゃなかった。その日は、ジャンプの発売日だったし、最新話のピューと吹く!ジャガーに夢中だったし、僕の部屋に向かってくる、親父の足音に、「こちとら良い気分になってる最中なんだから、邪魔しに来んなよ」とさえ思っていた。
部屋の扉を開け顔を出した親父に「来い」とだけ言われ、口を尖らせながら玄関に向かった。珍しく姉貴も親父も、3人とも家に居る日だった。僕たちの部活も、親父の仕事も無かったのか、何も覚えていない。ただの平日、日が暮れる前だった事だけ、覚えている。玄関の外には、近所のおっちゃんが神妙な面持ちをしている。いつも陽気なおっちゃん。おっちゃんは口を開き「おめえんとこの猫が轢かれてら」と言った。
アメリカンショートヘア。名前は「チョコ」だった。
姉貴のネーミングセンスだ。姉貴が今、飼っている猫は「プリン」と言う。食い物が、好きなんだろう。特に甘い食べ物が。正直、変な名前と思っていた。同級生に、猫の名前を言うのが恥ずかしかった。思春期の男が「チョコ」と言う恥ずかしさ。考慮して欲しかった。全然、チョコレートっぽい色でも無いし、納得行かなかったが、姉貴の方が権力が上だった。仕様が無かった。大人になって、自分で猫を飼い始めた時、名前の権限が僕にある事が嬉しかった。名前を「グラタン」にした。良い名前だ。
実家から1kmほど離れた場所に、畑があった。親父と僕で穴を掘り、チョコを埋めた。穴の中で丸まったチョコを見て、親父が「寝てるようにしか見えねえな」と言っていた。
ある日の学校帰り、チョコを埋めた畑を見た。そこには、薄紫色の花がたくさん生えていた。なんの花かはわからない。次の日には、何も無くなっていた。どうせ、信じて貰えないと思ったので、誰にも言えなかった。僕としては嬉しかった出来事なのに、誰かに伝えたら「変なやつ」と思われそうで怖かった。でも、誰にも言わなくて良かった。僕とチョコしか知らない事で良かった。
チョコと僕は、親友だった。
チョコは、家の壁で「爪研ぎ」ばかりしていた。暇さえあれば、爪を鋭くし、僕の太ももに刺した。いつもムカついていた。実家は、築40年以上で、ただでさえボロい家。なのに、全ての壁で爪を研ぐせいで、廃墟のようにボロボロになっていった。実家のトイレなんて、今だに汲み取り式。他の家は、ウォシュレット化していく時代だった。ウチは和式のボットン便所。僕は、実家のトイレが大嫌いだった。トラウマ級に嫌いだったのだろう。トイレが詰まり、うんこが溢れてくる夢を今でも見る。
チョコは、小学生の頃に飼い始めた。まだ片手に収まるほどの子猫だったチョコを、親父が知り合いから貰ってきた。僕とチョコは、小さい頃から一緒だった。遊んでいるうちに、チョコの気持ちが読めるようになった。コイツは今「遊べ」と言っている。コイツは今「撫でろ」と言っている。チョコは、僕のことを下僕かなんかだと思っていたのだろう。ある日、猫の本を読んだ。書いていた内容によると、人間が猫の気持ちを察し、コミュニケーションを測って行くと、猫も人間の気持ちを察してくれるようになるという。確かに、試合で負けて落ち込んでいる日、打算的な近づき方はして来なかった。ただ、足元に優しく擦り寄ってきて、体を擦り付けた。確かに分かってくれていた。
猫は、敏感だ。「ビビり」と言うべきか。常に周囲を警戒しているから、大きな物音に弱い。そして、睡眠が浅い。その辺も、僕と同じだ。猫は、おしっこ中の警戒心もすごい。猫自身、自分の排泄物が異常に臭いの理解しているのだろう。おしっこの途中で、物を落としてしまい音が鳴ると、出している最中でも走り出す。そして、床を、びしょびしょにしていく。流石の僕でも、おしっこ中は警戒が緩む。ゆっくりおしっこも出来ないなんて、可哀想。猫も大変だ。
中学の時、好きな子が出来た。「茜ちゃん」という埼玉から引っ越して来た都会の人だった。彼女はそれこそ、猫みたいな人だった。警戒心が強くて、いつも悲しそうな顔をしていた。故に、たまに見せる笑顔に、死ぬほど射抜かれた。可愛かった。大好きだった。この笑顔を、僕にだけ見せてくれるんだと思うと、気が狂いそうだった。
次第に、茜ちゃんと良い雰囲気になって行った。部活帰り、チャリを押しながら一緒に帰った。彼女のことが知りたくて、色々な話をした。「うち、猫飼ってるんだ」と言う自慢もした。「チョコ」という名前は言わなかった。そしたら、茜ちゃんは「猫が苦手」と言った。驚いた。僕は、猫の嫌なところを知らなかったので「なんで?」と聞いてしまった。今考えると、デリカシーが無かったと思う。どうやら、昔飼ってたらしいのだが、猫のおしっこの匂いがキッカケでイジメられたことがあったらしい。僕と同じだ。僕も同じ経験がある。猫のおしっこの匂いが理由で、リョウタにイジメられた。リョウタは、僕の近くを通るたびに、鼻をつまみながら「くっさ」と言った。哀しげに話す茜ちゃんの気持ちが、痛く分かった。僕は、茜ちゃんのことが、好きだ。益々好きだった。
来週、茜ちゃんが、家に来てくれることになった。こんな日が、訪れるとは。僕の家に来るということは、だ。である。部屋を片付けなければならない。そして、布団を洗わなければ。ティッシュを補充せねばならない。しかし、大きな気掛かりがある。茜ちゃんがもし、猫のおしっこの匂いで、嫌な記憶がフラッシュバックし、悲しい気持ちになってしまったら。
気が気じゃない。その日から、徹底した匂いの管理を行った。まず、決してチョコを部屋に入れないこと。アイツは去勢していないオス猫。すぐマーキングする危険なおしっこマシーンだ。綺麗にケアした、クリアな状態の部屋に入ろうもんなら、おしっこが止まらなくなる。絶対に入れてはならない。幸い、チョコのトイレは玄関にある。僕の部屋は1Fの端っこ。玄関からじゃなく、部屋の窓から直接アクセスが可能だ。なるべくトイレの匂いしないルートを通れる。この作戦、完璧である。
そこから毎日、チョコとの攻防戦が始まる。と、思っていたのだが、思いが通じのか、チョコは部屋に近寄りもしなかった。部屋がある方面に、立ち入りもしなかったのだ。驚いた。その日が僕にとって、どれほど大切な日か分かってくれたのだ。僕とチョコは親友だったから。部屋に向かう僕を見るチョコは「行ってこい」と言ってるようだった。やっぱり、猫にも思いは伝わるのだ。
そして、茜ちゃんが来る日。汲み取り式トイレが壊れ、僕たちのうんこが溢れ出し、猫のおしっこなんか気にならないくらい、うんこ臭い家が出来上がった。だから僕は、実家が嫌いだ。
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