見出し画像

近づく秋を感じながら:木田元 (2)

2階の書斎の窓からは、それほどは遠くない山並みを背景に長閑な田園風景が広がっている。
田圃の風景が何もない土塊に水が入り短い苗が植えられて青緑の色となり、その青が緑に変わり、やがて陽を受けて黄金色に輝く。風に肌寒さを感じるようになると薄茶色の藁が残る田圃に変わる。山は色鮮やかな紅葉に染まり、秋の深まりを告げる。季節は巡り、下げ箇は流れていく。

季節の移ろいを眺める窓に面して、長い机があり、パソコンが2台並べてある。父親の建てた家を建て替えた際に、特注で作った2m超の机である。妻と共有のワークスペースである。机の両サイドには資料や書類を収納するボックスがあり、更にパソコンとプリンター、サーバー類を格納しているラックがある。西の壁は天井までの作り付けの書棚であり、東はドアと両サイドに書棚を配置している。南には寝室へと続く引き戸がある。これが我が書斎である。
別棟の書庫と第2書斎は隠れ家の様相を呈している。本や資料を何度か整理・処分してきたが、いつの間にか増えている。別段、本の冊数を自慢する気もないし、冊数で能力や仕事が評価されるものでもないと思っているが、冊数を自慢気に書く人間もいる。くだらない自慢だ。

こうして窓の外に目を移しながら、本を読んだり調べ物をしたり、パソコンに向かっているが、椅子に座る私の膝には愛犬が丸まって眠っている。(画像にしているトイプードルである)
娘から母へのプレゼントなのだが、甘えん坊さんで家族の誰かの傍に必ずいる。今までは父親が飼っていた柴犬が3代にわたってほぼ30数年間いた。最後の犬が死んで5年以上になる。この4月に父親が永眠して、どこか寂しくなった我が家なので、室内犬を初めて飼うことにした。この数ヶ月、随分と癒やされている。家族の会話も愛犬の話題によって増えていると思う。私もリビングにいる時間が多くなり、この書斎にいることが少なくなって、机の周りには読みかけの本が山積みである。


最近、木田元に嵌まっている。彼の書いた哲学の専門書や訳書よりも、持っていなかったエッセイや自伝をネット経由の古本屋で買い求めている。今日も、『闇屋になりそこねた哲学者』(ちくま文庫)『新人生論ノート』(集英社新書)『私の読書遍歴』(岩波現代文庫)が届いた。

木田元の書いた専門書を最初に手に取ったのは、『現象学』(岩波新書)であった。確か、高校2年の夏だったと記憶している。倫理社会の授業で、元々歴史が好きだった私は思想史に興味が移り、やがて哲学そのものを深く知りたいと思うようになった。多分に担当の先生の影響が大きかった。以後、個人的にも親しく教えを受け、思想・哲学、やがて心理学・精神分析へと関心が移り、大学での研究の専攻を決めていったにも、恩師から受けた影響が強い。

恩師と個人的に接する機会を与えてくれたのは、大学で哲学を専攻している先輩だった。夏休み、その先輩がサルトルの英訳本を持って、私たちが入り浸っていた社会科研究室に顔を出した。大学の演習で読んでいると、サルトルや実存主義について熱く語っていたのを今も覚えている。

早々に書店に行き、岩波新書や講談社学術新書から実存主義に関係ありそうな本を買い求めた。木田元の『現象学』もその一冊だったと思う。正直、専門的な内容は半分もわからなかった。しかし、フッサールやハイデガー、サルトルやメルロ=ポンティといった哲学者の紹介と彼らの関係性、彼らが生きた社会と歴史的背景が彼らの哲学に及ぼしている影響などについては興味深く面白かった。特にフッサールには強く惹き付けられ、現象学をもっとわかりたいと思った。

恩師から多くの本を借り受けて読み耽った。特に、ラッセル、マルクス、マルクーゼ、フロイト、フロム、ユングなどは恩師の書棚から学んだ。高価な単行本を買う余裕のなかった私にとっては、恩師の書棚と新書や文庫が知的好奇心を満足させる栄養源であった。


木田元については、著書よりも翻訳書とその解説で名を知ることが多かった。特に大学時代の一時期、メルロ=ポンティを耽読していたので、木田の翻訳にはお世話になった。他の哲学書の翻訳に比べて、木田の訳はわかりやすい。このことは多くの方が証言(称賛)しているが、日本語として文意を明確に掴むことができたと感じている。
フランス語での原書講読の経験は少ないが、ドイツ語では木田訳の上手さ、訳語と文意の的確さを実感した。原書講読や原書と邦訳を対比させて読んでいると、木田の翻訳がいかに日本語としてわかりやすいかを痛感する。一つの疑問は、なぜ木田はハイデガーの『存在と時間』を訳して出版しなかったのかということで、未だに不思議に思っている。

哲学を専攻しなかった理由は、ユング心理学や精神分析に興味が移ったことが大きいが、一人の哲学者なり、実存主義や現象学といった哲学なりを探求するよりも、思想史を歴史的に社会や政治と関連させて広く知りたいと思ったからである。つまり、社会学や社会思想史、社会心理学の方が私の関心が強かったのである。

私は哲学者にかぎらず他の学問であっても学者や研究者、小説家や評論家の個人的な人生には興味も関心もない。彼らの学歴や肩書き、家族や生い立ちに異常にこだわり、彼らが著作や論文で主張する論考や意見の背景として無理矢理にこじつけて批判する人間がいる。それを分析や考察と思い込んでいる。自分がそうだからといって他人も同じであるとは限らない。個人の思想や思考がその個人の生育や人格、あるいは出身大学や肩書き、さらには職業による規制に依拠していると決めつけるのは早計である。ましてよく知らない人物や情報が少ない人物に関して、臆測だけで断定的に批判するのは以ての外と思う。(自由に発信できるSNSやブログには、この手の予断と偏見、一方的な決めつけが多いが…)

木田元の自伝の特徴は、実直な人柄が伺えるほどに明け透けに語っていることである。それだけなら読む気もしないが、彼の自伝的なエッセイには、自分が向き合ってきた哲学者や研究対象に対する正直な感想、どのような関心を持ち、どのように取り組んできたかが書いてあって、実に興味深い逸話が多い。

これから深まる秋の夜長には、専門的な読書とは別に、先達の人生を辿る読書もよいかもしれない。

いいなと思ったら応援しよう!

藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。