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昼寝をしながらメディアを考えた

 テレビやネットで「オールドメディア対SNSはSNSの勝ち!」とか「テレビは負けた!」とかいう感じの番組や記事を目にしてオールドメディアっていったいどこから旧なんだろうと思いました。

 メディアというのは媒体の事ですから、粘土板に文字を刻んでいた時代では粘土板がメディアってことになるのですが、そんなもんオールドすぎてもうだれも使っていないので、今生きている主力メディアだけに絞って考えられているようです。 
  
広告業界的には新聞、テレビ、ラジオ、雑誌、WEBが5大マスメディアとされていますが、このうちラジオに関してはもう勝ったとか負けたとかいう以前に副次的なメディア(何か他の事、例えば運転しながら聞くとか)になっていますし、新聞も雑誌も発行部数は激減していますから、現在の主力メディアはテレビとネットという事です。
 つまりここで言われている「オールドメディア対SNS」というのは、テレビと新聞、雑誌の3メディアと、5大マスメディアの中では最も新しいネットとの対立構造のことだと思いました。ただ、一口にネットといってもそのコンテンツにはテレビ局や雑誌社が発信しているものも多いので、ネットメディア=一般市民が発信しているメディアということではなくて、一般市民「も」発信しているマスメディア、という事になるかと思います。ちなみに「SNS」の方もいろいろありますが、上記の対立構造で想定されているのはYoutube、X、インスタあたりがメインで、TikTocやFacebookはちょっと違うという印象でしょうか?

ちなみに総務省による2020年時点でのメディアの利用状況データから1週間でどのくらいそのメディアを利用しているかを計算すると、

テレビが1442.8分(リアルタイムと録画の合計)、WEBは1191.8分、新聞59.1分、ラジオ82.2分でした。

これは全年齢の平均です。10代~30代に限ってみるとWEBの利用時間がトップになっています。ちょっと古いデータなので、現在では全体平均でもWEBの利用時間のほうが多いかもしれません。

広告費の金額で比べてみると2019年にWEBがテレビを上回ってからその差は年々大きくなっています。2023年時点で、WEBの広告費は約3.3兆円、テレビと新聞、雑誌、ラジオの合計で約2.2兆円ですから、ビジネス的な勝った負けたに限って言えば、ずいぶん前からオールドメディア企業は負けていた事になります。
 しかしそれはオールドメディアが提供している優秀なコンテンツまで負けたということではなく、BBCやCNNを見ればウクライナやイスラエルで行われている戦争の情報に関しては個人から発信される情報よりも有用であることが多いと感じます。(それが日本のマスメディアには必ずしも当てはまらないとうのがちょっと残念ではありますが。)

利用者の年代を見てみると、インターネットが一般市民でも使えるようになった1990年代以降に生まれた人はWEBの方を重視する傾向が強まっていくのは当然なんですが、これをもって「ネットを使いこなす若者といまだにオールドメディアを信望する中年と老人」の対立と解釈するのはちょっと安直です。若くてもネットリテラシーが無い人はたくさんいますし、年寄りでもネットを使いこなす人はたくさんいるので、若い人は禿げていない人が多いとか、年寄りにはしわくちゃが多いというのと同じような、「そんな傾向がある」だけと考えておいたが良いです。

そして、「オールドメディア対SNSはSNSの勝ち!」とされる現象を「民衆のメディアが巨大メディアに打ち勝った」と取ってしまうと「こいつはすごい!」ということになるのでしょうが、「日本のメディア企業はアメリカのビックテック企業に太刀打ちできなかった」と捉えるなら「そりゃそうじゃん」という感想しか湧きません。そもそもオールドメディアとSNSの話を単純な対立構造に持っていくべきではありません。どっちが勝ったとか負けたとかいう話ではなくて、ネットもメディアのひとつだという当たり前の話から始めたほうが本質に近づけるのではないでしょうか?

ネットもまちがいなく不特定多数に発信するマスメディアのひとつなのですが、発信主体の小規模化と多極化しているという特徴がありますので、情報を一元処理して提供するオールドメディアと区別して考えることは可能です。しかし、ネットで行われていることは良くも悪くも「マスゴミ」と揶揄されるオールドメディアで行われてきたことと同じようなものです。

当たり前の事ですが、テレビや新聞、雑誌にも非常に真摯な姿勢で作られた有用な番組や記事がたくさんあります。問題はそれよりもはるかに多い、というか、ほとんどの番組や記事が下衆の勘ぐりとスキャンダリズムとエロティシズムに立脚している事です。この玉石混交はネットにおいても全く同じですから、どっちが正しいとかいうことではなくてテレビや新聞や雑誌やWEBなどなどにあふれかえるゴミの中からどうやって自分にとっての宝石を見つけられるのか、ということだと思います。

そこで必要とされるのが「倫理」なんですが、この「倫理」というやつがまたやっかいで、紀元前から「こうすりゃいいじゃん!」と言われ続けているのですが、いっこうに実現できていません。考えてみれば、うまい飯を食いたいとか異性にもてたいとか人より優位になりたいとか長生きしたいとか気に入らない奴は殴り倒したいとか嫌いな奴には死んでほしいとかという人間の本質は変わっていないようなので、少なくともこの数千年間において「平和でありたい」という願いは常に裏切られてきたというのが現実のようです。※下記注あり

ここが変わらない限り、発信の主体が企業から個人になったところで人気があるのは絶叫調のスキャンダリズムという現状は変わりません。

ビジネス的な側面で言うと、一元処理をした情報を販売していたオールドメディア企業から多極化情報を発信させて利益を上げるテック企業に覇権が移ったという事であり、大衆をコントロールする手法でいうと、ジョージ・オーウェルのいうところのビッグブラザー型からミシェル・フーコーのいうところのパノプティコン型、あるいはカール・グスタフ・ユングのいうところの集合的無意識型に変わったという事です。

とは言え、個人がメディアの発信者になれるというのはとても意義があることで、限られた人間だけが可能だった「バカやり放題」が一般市民にもできるようになったというのが現状であるとしても、ここから先もずっとバカが続くとは限りません。未来が悪くなる方に賭けて勝ってもしょうがないので、ぼくは未来が良くなる方に賭けたいです。それで負けたらそれはそれでしょうがないですけど。


※    昔の人が考えた倫理
メディアに必要とされる倫理とはなにかと考えたとき、ぼくは孔子とアリストテレスの言葉が気になりました。

BC552か551年に生まれた孔子が言ったという「過ぎたるは及ばざるがごとし」
→「やりすぎは良くない」という意味で使われる事が多いかもしれませんが、「超過も不足も共に悪い」というのがもともとの意味だと思います。
BC384年生まれのアリストテレスも「悪徳には超過の悪徳と不足の悪徳があって、その中間になるのが徳である」と似たようなことを言っています。具体的には以下のような解説が行われています。

・心に恐怖が多すぎると臆病になり、少なすぎると無謀になる。中間が勇気。  

・快楽を求める気持ちが強すぎると放埓になり、少なすぎると不感症になる。中間が節制。 

・お金のやり取りがルーズすぎると放漫、シビアすぎるとケチ。中間が寛厚。 

・自信が強すぎると傲慢、なさすぎると卑屈。 中間がプライド。 

・意味なく何にでも怒るのが激怒中毒、何事にも怒ることができないは意気地無し。中間が穏和。

・盛り志向が強すぎると虚飾、弱すぎると卑下。中間が真実。 

・ユーモアが行き過ぎると道化、なさすぎると野暮。中間がウィット。

・相手かまわずおもねるのがご機嫌取り、だれにもニコリともしないのが不愛想。中間が親愛。

・うまくやっている人を見て苦しくなるのが嫉妬、うまくやれない人を見て喜ぶのが悪意。不当にうまくやっている人を見ると苦しなるのが義憤。

以上の日本文は僕自身がわかりやすい言葉にしているので、アリストテレスの意図と違う!というところもあるかもしれません。どっちにしてもネットリテラシーをどうこう言う以前の基本的な姿勢として、中間に徳を見出すという考え方は有効な気がしています。(ただ、大昔から言われることなのにいまだに徳のある人間は少数派なので、この倫理設定自体がまちがっている、のかもしれませんけどね。)


●補足としての超ざっくりメディア史おさらい

人類は約10万年前に言語を使うようになったと言われています。時期に関しての真偽はわかりかねますが、これが人類最大のイノベーションであったことは間違いないかもしれません。これが最初の人間的メディアと言えるかもしれません。

(当然これ以前にもメディア的なものは存在していて鳴き声や表情、あるいはフェロモンとか、鳥が大群で飛ぶときに群れをコントロールしている何か、とかアリの集団の規律をコントロールしている何かとかです。ひょっとしたらこの辺の仕組みで今の人間も使っているものもあるかもしれませんが、さすがにこれをメディアといってしまうと話がでかくなりすぎるので、分けておくべきでしょう。)

そして紀元前3000~4000年頃に文字を使うようになったそうです。
マスメディアの誕生です。

紀元前427年生まれのプラトンは、文字は人間の記憶力を劣化させると言っています。メディアへの批判は大昔からあったんですね。

そして7~8世紀には木版印刷、1440年頃にはグーテンベルクの活版印刷が始まります。

新聞は、こんな感じ
 1605年 世界初の週刊新聞発行
 1614年 現存する最古の瓦版 
  (不倫トラブルや未確認生物発見など、
   現在のメディアと同じような記事もたくさんあったようです)
 1650年 ドイツで世界初の日刊紙創刊
 1870年 日本初の日刊紙創刊 
  (ここからメディアが戦争広報の煽動に威力を発揮し始めます。)

同じ印刷物である雑誌も同じような感じで発展していきます。

20世紀になると電気通信技術が飛躍的に発達します。

ラジオ
 1920年 民間による初の商業放送 

テレビ
1935年 ドイツで世界初のテレビ放送開始
1939年 アメリカとソビエトで定時放送開始
    映像が戦争と宣伝にとって非常に強力なツールになってくる時代
1953年 日本でテレビ放送開始
1975年 日本のテレビ普及率90%超
   テレビばっかり見ているとバカになるぞ!と言われた一億総白痴時代

この辺りで「ニューメディア」と呼ばれるものが登場しますが、聞いたことがないものばかりなので、ほぼ全滅したようです。(たとえば1979-86年にはビデオテックスってのがあったらしいのですが、こんなもん知ってる人います?)

そして、1976年apple1が発売され、1971にジョン・レノンが歌った「パワー・トゥ・ザ・ピープル」を実現するガジェットとして期待を集めたそうです。パーソナルコンピュータというのはヒッピームーブメントにおける社会変革ツールのひとつと捉えられていたようで、そういえばジョブズも若い時の写真を見ると長髪にひげで禅ですね。

1984年にはネットスケープナビゲーターというブラウザがリリースされます。一般の人でもインターネットにアクセスできるようになったのはこの辺りからだそうで、そこから後はネット中毒に向かって怒涛の進撃が始まります。

Web
2002 youtubeスタート 
2004 facebook mixi スタート
2007 初代iPhone発売
2023 日本のスマートフォン普及率90%超

→テレビはその普及率が90%を超えるあたりで次代のテクノロジーである電気通信に向かい合う事になりました。パーソナルネットは普及率90%を超えた今、次の技術である量子コンピューターによるAIと向かい合っています。

さて、ネットがオールドメディアになる時、またもや愚行のバトンタッチに終わるのか、もうちょっとましになるのかはぼくたち次第、ということのようです。


※蛇足ですが
辞書で有名なイギリスのオックスフォードが選ぶ今年の言葉は
brain rot だそうです。ごみコンテンツの過剰摂取で脳が解けるって事らしいです。日本の流行語大賞は ふてほど とのこと。なんでもかんでも外国がいいなんてまるっきり思わないのですが、「大丈夫か?日本!」


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