東洋文明に流れる世界観~過去の思想を通して未来の可能性を展望した本『茶の本』を読む
『茶の本』をご存じでしょうか。この本は、1906年(明治39年)当時ボストン美術館に勤めていた岡倉天心によりニューヨークの出版社から出版された本です。出版当時、新渡戸稲造の『武士道』とともに近代国際社会へ飛び出した日本の解説書として華々しく迎えられアメリカだけでなくヨーロッパの各国で翻訳されました。しかし、日本が戦争への道を進むにつれて、日米双方においてこの本は軽んじられてしまいました。そんな『茶の本』はどのように日本人を、日本文化を描いているのか見ていきたいと思います。
1.岡倉天心について
岡倉天心は明治時代に活躍した日本美術運動の指導者で思想家です。横浜に生まれ、幼いころから英語に親しみ14歳で東京大学に入学しました。東京大学で師であるフェノロサに出会いました。フェノロサは東大で哲学や政治学を教えていましたが、美術にも大変に造詣が深く、日本美術を世界に紹介した人です。ここでは岡倉天心はフェノロサの通訳としても活動していました。
このころ明治政府の方針(廃仏毀釈)で寺院は荒れ、仏像は破壊され、惨憺たる有様でした。フェノロサと京都をめぐった岡倉天心は、これではいけないと大学卒業後は文科省に入り、現在の東京芸術大学を創立します。ここで東洋美術の復興に力を尽くしますが、そのころ日本は西洋化一辺倒。岡倉の思想は相いれないものでした。日本にいることがいたたまれなくなった岡倉は渡米し、ボストン美術館で広く欧米社会に向けて東洋文明のすばらしさを説き、古美術の収集に力を入れました。収集しすぎて、怒られたこともありました。そんな岡倉天心の書いた『茶の本』は、欧米の読者に向けて執筆した日本文化論で、岡倉天心の思想の集大成といわれています。
2.文化を相互理解することについて
岡倉天心がこの本を書いた理由はたったひとつだと思います。それは茶の要義として語っていることです。
おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見のがしがちである。
当時、欧米列強といわれる各国は、東洋は遅れている、文化も文明も遅れている、学ぶことなど何もない、と考えていました。だからこそ作者ははっきりと書かなければならない、と考えました。東洋の文化を見て、幼稚だ、珍奇だと騒ぎ立てるのはやめなさい、東洋といえば武士道だと騒ぎ立てているが、戦争に勝てば文明国ではない。武士道とありがたがるが、あれは死の術だ。武士道が死の術なら茶道は生の術である。
作者はこの本を発表することで西洋が東洋を了解するべきであると考えました。インドも中国も日本も見下げられてあざけられるのではなく、お互いが理解することができていれば戦争の血なまぐさい光景は見なくて済んだのだから。なぜなら、西洋の諸君は、茶をなんの疑いもなく受け入れたではないか!
ヨーロッパにおいて茶のもっとも古い記事はアラビアの旅行者の物語にあるといわれています。千年以上前、茶はシルクロードに面する都市の歳入の主要な財源として認識されています。それから茶は世界中に広まりました。アメリカの独立はボストンの港に茶葉を投げ捨てたことに始まりましたし、シェイクスピアもサッカレーも茶を好んで飲み、物質主義に対する反抗として、茶道の思想を受け入れています。茶道の思想について作者はこのように考えています。
それは「不完全なもの」を崇拝するにある。
人生の中にある「不完全なもの」「不可解なもの」から何かの可能性を見出す行為こそが茶道だとしました。
では茶道とその思想は茶の変遷を見ていこうと思います。そこに文化理解と美意識のカギがあるのではないでしょうか。