折り合いをつける
「妥協する」ということが嫌な若者が増えているというのをどこかで読んだ。デジタル大辞典によると、「対立した事柄について、双方が譲り合って一致点を見いだし、おだやかに解決すること」らしい。双方が譲り合って一致点を見いだすはずなのに、譲ることが負けた感覚になるそうだ。
同じような言い方で「折り合いをつける」という表現もある。実用日本語表現辞典の意味は「交渉において、互いにある程度譲り合って双方が納得できる妥協点を定めること。互いに意見や立場が対立しないポイントを見出すこと」。譲り合い納得する妥協点、つまり一致点を見つけることだ。
譲り合うことが下手な社会になっているのではないかと、ふと思う。「NOと言えない日本人」という表現が流行ったが、欧米社会中心の国際社会で、自己主張が下手というコンプレックスに悩まされた日本人の中には、なんだか相手の声を遮り、聞かずに主張しまくることを自己主張と勘違いしている人も多い気がする。
譲り合う、納得するためには、相手の言っていることを聞き、理解し、理解できなければ、理解できるように会話をしなければならない。じつは非常に面倒くさいことなのかもしれない。でも、この一見面倒くさそうに思える行為はとてつもなく価値のあることだ。この行為から生まれるものは想像している以上のものをもたらしてくれる。
共に生きること。その重要性を意識すること。意見を言うことは大切だが、相手の意見をしっかり聞いているだろうか。世界は絶対善、絶対悪でできてはいないはず。折り合いをつける、自分に対しても。それは決して自分が屈したわけではない。