批評家と「旅人」が嫌われるワケ
批評家の「上から目線」
批評家(critic)という類の人々を語るにあたり、5年ほど日本語圏のインターネットでは以下の画像が共有されることがよくある。
この画像の出典は『新英文読解法ー本格的な読解力を確実に』(中原道喜著)で、以下の文章の和訳であるとのこと。(ソースは下記引用内のURLから)
エドワード・デ・ボノについてはさておき、物事の粗を探してネガティブな批評を加えることをやめられない人は世の中往々にしている。そう、「ボクは冷静で中立で論理的な人間だから、政治活動にヒステリックにのめり込むヒトモドキよか優れている」と思いながらこの記事を読んでいるあなたのことですよ。
何も己が出会すあらゆるものに対して欠点を見つけては否定形を多用して(ときには二重否定や三重否定なども使って)批判や批評ばかりするのが「理性的で中立」とは言わないと思う。それに、「中立」「ノンポリ、ノンセクト」「政治的に流されない」と言いながらも、大概は強者や自分が生理的に受け入れる勢力の肩を持ったり共感し合える仲間で集まったりするものだから、そういったことを「中立」と言えるのかね?こういう「太陽は東から昇る」を「太陽が西から昇らないのは言うまでもないし、そういうことがわからないバカが多すぎるこの世の中はクソ」と強い言葉で言い換えたがるような輩、いわゆる冷笑系が煙たがられるのは、胡散臭いというか、「右翼でも左翼でもない」というのは真でありながらも「特定の派閥や政治思想からは自由とは言えない」*1と言えるからである。
*1 実際派閥を成しているしな。
先に似たような不愉快な連中へのぼやきというか愚痴が出てきてしまったので、本題。
画像中の下線部や引用の太字にあるように、批評家を鼻持ちならないと思う人が私含め多かれ少なかれいるのは、人物であれ工業製品であれ農作物であれ文学であれ映画であれ音楽作品であれ訪問先の地域であれetcetc、批評家は自身が出会すあらゆる対象を一消費者の視点で、すなわち「上から目線」で断罪する*2から、そこに不快感を多少とも覚えるということなのだろう。
*2 もっとも、これは人文科学や社会科学といったブンケイ学問の一部にも言えることだが…だからといって理系学問を慌てて目指したところで、そこにも政治など人間の思惑が付き纏うこともあるものだからねぇ。
自分自身は作品や製品といった製造物をなんら生み出さないくせに、したり顔で他人が作った製品を片っ端から消費しては文句をつける。有形無形の製品やサービスを提供する労働者からすれば、そういう人を我慢がならないと思うのは実に当たり前のことである。私自身も拙いながら楽器演奏や歌などをやっているが、実際にプロでもアマチュアでも即興や作曲ができる、できなくてもミスタッチなどが少なく表現も豊かで安心して聴ける演奏家は無条件で素晴しいと思っている。そうしたことも抜きに何でもかんでもこき下ろすのはいかがなものか。
「旅人」/旅行者は批評しかできない
はて、批評家と同じように嫌われる存在として、旅行者、いや「旅人」というものも挙げられよう。元サッカー選手の中田英寿が現役引退後に「旅人」を自称した頃からか、その実態の不明さなども相まって「旅人」を名乗る者が非難されるようになった。その中には時期的に中田氏よろしく「自分探し」をするために世界一周だの「秘境」巡りだのといった旅行をしたがるバックパッカーのような狭義の「旅人」も多くいたろう。しかし先進国と発展途上国を問わぬインターネットの普及や、SNSやら口コミサイトの膾炙が進んだ情報社会の現代では、もはや旅行は単なる批評に落ち着いているのではなかろうか。
同時代を生きる現地人でも知らなかったような遺跡や地理的事象、化石などの発掘や風俗などの再発見に精を出す探検家や学者、長らく余所者はおろか現地人自らによっても言語化されてこなかった現地の事象を言語化して公表する研究者などであれば、現在でも自らの所属する社会や世界中へ新しい事実を広める情報としての付加価値があるから評価もできよう。しかし一方で、先述の情報社会の進展により、玉石混交の情報が洪水のように溢れ出ている*3ため、旅行者による単純な知名度が高い観光地や都市の風土紹介や紀行文というものは陳腐化しており、ただの「感想文」か何かと大差ない物と化している。
*3 残念ながらその内訳は、日本語圏で旅行について検索した場合をとっても、取材やソース情報の提示といった裏取りが一切無しのコタツ記事で成り立っているようなキュレーションメディアのような石が圧倒的に多いが。
剰え、グローバル化が極端に進んだ現代では、自らの出身国を出て労働者となる人材や国際結婚する人も多く増えたし、留学して知見を得ようとする人も多くいる。その国や社会の住民、構成員として働き、別の構成員に寄与するよう努力する人、ないしその地域から何かを学ぼうと努力する人にとっては、単に娯楽として一時的に訪問する者のそれとは違う法制度や生活習慣などの発見がある。昨今では異文化理解という点では、国内外を問わずそういった情報も増加しつつある。その中にはその国や地域、ないしその構成員たる他者について必死に言語や習慣などを学び、懸命に社会を理解し適応しようとがっぷり四つに組んできたにも関わらず、残念ながら降参せざるを得なくなった人々もいる。(下記各URL参照。なお3件目は著者自身の故郷をも「他者」として見なければならなくなるほど追い詰められたケースであるとして掲載した)
・https://twitter.com/mustafaalyabani
・https://togetter.com/li/330229
・https://www.super-iwachannel.com/entry/あばよ!!!
しかし旅行者が「その国や地域が嫌だ」という場合はどうだろう。たとえばこのブログ(2017年5月以降更新がないので消息不明ではあるが)を読んでほしい。
・https://kuantan2007.wordpress.com
(他にも同一著者による姉妹編と思しきブログが多数残されているが割愛)
当人がいくら「俺は何回もその国に行っているからぽっと出でその国が嫌だと言っているのは違う」と言おうが、その土地にほぼほぼ寄与せず、何か新しいものを生み出しもせず、ただ現地の物品やサービスやインフラを消費しては「あの国のあれは良かった、これはダメ」と批評のみする一訪問者、すなわちいつまでもぽっと出の「いちげんさん」の視点を出てはいない。畢竟するに、先程の留学生や配偶者、労働者の観点が著しく欠けているし、陳腐な感想文をウエメセで吐き出しているだけではなかろうか。待てよ?そう、これこそが「旅行者∪「旅人」=批評家 ∩ 批評家=浅薄 ∴「旅人」=浅薄」とされ、「旅人」が嫌われるワケなのだ。
関連して、現在の日本が目指す「観光立国」やその縮図たる地方の観光政策が外国からの観光客のインバウンド*4頼みが嫌われるのもここにあろう。「観光地にカネを落としてくれるならなんでもいいだろ」*5という意見は、なるほど「お客様は神様です」という三波春夫の言葉を盲信したような日本人の過度なカスタマファースト精神に裏打ちされているかもしれない。しかし、それでもそういったものを拒絶する人が多いのは、単なる外国人嫌悪やよそ者嫌い(xenophobia)だけではなく、カネだけ落とすだけ落としても現地社会の発展に寄与することなく、傍観者として資源やサービスやインフラを食い荒らし、おまけに「日本のここがよかった、あそこがダメ」としたり顔でギャラリー行為をしてばかりな「批評家」たちが嫌になるのだろう。カスタマハラスメント(カスハラ)に近しい行為まで振るわれることへの不快感も相俟って、生産者やサービス提供者としてそういう行為が許しがたいというものだ。
*4 政府や各地方自治体はいわゆる西洋からの日本文化に理解のある白人観光客を最上客と想定しているが、今やもう端金でもかき集めたいから安さ狙いで来たアジア系など有色人種でも良いのだろう。
*5 先述の旅行者による自己正当化の言い分にもあるが。
けつろん
過度な「働かざる者食うべからず」思想は、確かに障害者や高齢者、難民、貧困層など、弱者の排除や殲滅や浄化といった悲惨な結論をもたらしうるだろう。しかし、何ら生産しないのに上から目線で他人の生産物にケチをつける人もまた見ていて不愉快と思う人もいる。そういう意味で批評家と「旅人」(旅行者)は同様に嫌われていると言える。
また関連して、日本における「旅行離れ」については、筆者がいくつか旅行を含む移動の未来像についてこれまでここに書き立ててきた記事中の各事項だけではなく、自らが何も生産しないということに罪悪感を覚えるようになったとか、そこまでいかなくともより自分たちが貧しくなる中で、時間や資金を単なる消費だけでなくより生産的なことに使用したいと思うようになった(コスパ、タイパ…)ということも考えられよう。
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