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人は自分の利害や関心に近いものしか問題にしない

日本の難民行政をも動かしたウクライナ問題

ウクライナ情勢について、当事者との利害関係を抱えていたり移民の多かったりする欧米諸国だけでなく、遥か彼方の日本でもこの1ヶ月は連日大騒ぎしている。マスメディアの報道はそれまで新型コロナウイルス一色だったのに、最早コロナのコの字も出てこないレベルどころか、このままCOVID-19のことなど忘れさせようと必死なように見えてくる勢いである。
メディアを離れても、民間企業だけでなくなんと日本の政府や地方自治体すらウクライナ支援に動き始めている。より近場で日本の政経面での影響が大きいことが容易に予想つくミャンマーのクーデタや中国におけるウイグル人を含む少数民族の人権問題が取り沙汰されてもなお動くことがなく、犠牲者をも多く出してきた日本の難民行政が、ウクライナからの難民については-「難民」と「避難民」の区別をつけながらも-積極的に受け入れに転じようとしている。

そこまでして官民を問わずここまで大騒ぎしている理由は何か。
ウクライナ人がガイジンの中でも「白人様」であり、「厄介な野蛮人」たるAALA出身者ではないからか?それとも(いくつか前の政権の宰相や「中国が北海道の水資源を狙っている」というよりありえない話を垂れ流していたデマゴーグも含めて)日本人がこれまで事実上譲歩か無視をしてきた、北方領土問題の交渉相手であるロシアという自身の隣国が当事者として関わっているからか?
それまでウクライナとウイグルとウルグアイの区別もつかなかったか、ウクライナと聞けば白人パブのキャストの女性のようなブロンド「美女」やらやたら日本に媚を売ってロシアを敵視するホニャララレンコアンドリーみたいな人が何人かいる国…といった解像度の低い理解しかしていなかった日本人も、ウクライナを支持するだのと言っている人の中にはごまんといるはずだ。

日本社会含め国際世論がここまでウクライナ問題で騒ぐ理由については、1990年代のユーゴスラビア解体(特にボスニア・ヘルツェゴビナやコソボ)とルワンダ内戦やその他地域の戦争の扱われ方の差を思い出していただきたい。

ユーゴとルワンダ

ユーゴスラビア解体は旧社会主義圏で起こったということもさることながら、1992年のEU発足の翌年にボスニア紛争が激化したことや、それから程なくしてコソボでも領土紛争が勃発したことを受け、冷戦終結後にこれから統合されようとしつつある欧州でスレブレニツァ事件のような虐殺を伴う過酷な戦争が起こっているということで、欧州諸国の耳目を集めていたのだ。
ルワンダでは1990年代を通したユーゴの諸紛争での犠牲者数を上回る血が流れた(旧ユーゴ出身のE・クストリッツァによる映画『アンダーグラウンド』にもルワンダでの虐殺に涙を流す兵士が登場するが、自国の情勢を鑑みると強烈な皮肉に思える)が、旧宗主国のベルギー含め欧州諸国がどれほどメンションしたかについては、下記の記事からもわかる通り、仮に無視されていなかったとしても旧ユーゴよりも少ないとしか言いようがない。S・ソンタグが演劇『ゴドーを待ちながら』をなぜキガリではなくサラエボで上演したかもここに理由があるはずである。

これに便乗して、日本人の多くも当時はバルカン半島に目を向けていた。ボスニア紛争の同時期にカンボジアへの日本の自衛隊のPKO派遣が可決されたのもすぐに騒がれなくなったし、コソボ紛争の前後には旧ソ連のタジキスタンの紛争で、同胞の秋野豊氏が殺害されたという痛ましい事件が発生していたにもかかわらずである。

なぜ中東がここまで取り沙汰されるのか

バルカン、バルカンと騒いでいた欧米や日本も、2001年9月11日以降急に中東へとその眼差しを向け始める。
しかし言うまでもなく中東をめぐる諸問題は、何もその日から欧米や日本に急に注目され始めたものではない。欧米諸国はホロコーストに代表されるユダヤ人差別や植民地をめぐる問題に関連してイスラエル・パレスチナ問題、それに中東の石油の利権といった2つの問題を抱えてきた(しかもそれは近代以降を通して相互に連関しあっている)し、日本も第二次世界大戦後は1950年代のイランの石油国有化運動や1973年の第1次石油ショックにて後者の重さを思い知らされてきた。結局この2つの問題を抱えている限り、欧米や日本は中東諸国から目を離すことはできないのである。逆にいえば2010年代後半に話題になった米国の頁岩ガスの資源開発が進むか再生エネルギーや代替プラスチックが実用化されるとか、ユダヤ民族国家が東地中海地域の一角ではなくルワンダの隣国ウガンダや今日の中国東北部やらシベリアの奥地にできていたらとか…といったifも仮定法の使用の有無を問わず想定してみてほしい-もしそうならここまで中東に皆注目していただろうか?

この記事のようにウクライナが取り沙汰されてからシリアやパレスチナなど中東諸地域は野放しにされているという声もあるようだが、逆により国際社会(と言う名の欧米の言論)から見放されてきた地域もあるし、逆にこれまで中東が注目され「すぎ」ていたという可能性もあることを考えていただきたい。

Remember Biafra

そうそう、石油関連といえばビアフラという地域をご存じだろうか。日本ではある世代以上の方であれば名前だけでも聞かれた方もいらっしゃるだろう。この記事の画像に設定した写真は、まさにその紛争の最中に発生した飢餓の被害者を撮影したものである。
なおこの「飢えたアフリカの子供」の国際世論におけるイメージは、10年後の1980年代中期にメンギスツ政権化で発生したエチオピアの飢餓で復活ないし「強化」されたとも言えるだろう。英国発の音楽慈善事業「ライブ・エイド」や米国の同様な「USA・フォー・アフリカ」に出てきたあの子供達である。

1984年飢饉時のエチオピアの子供達。
写真は以下URLより:
https://www.independent.co.uk/life-style/history/a-day-that-shook-the-world-ethiopian-famine-reported-on-the-bbc-2235873.html

さらにこのイメージはその10年後、先述のボスニア紛争の時期にスーダン(当時)で撮影されて後に猛烈な批判を浴びることになる『ハゲワシと少女』の写真にてさらにリバイバルされることになる。

ハゲワシと少女 (K・カーター撮影、1993年)

しかしビアフラが、当時大国となっていたアメリカがまさにソ連との冷戦の代理戦争としてベトナム戦争を戦っていたにもかかわらず、傍らでこれほど注目された理由は何か。単に飢餓や戦闘による犠牲者が多く出たと言うだけではなく、そこに英国の石油をめぐる利権が絡んでいたからである。既に石油とこの問題の関連については以下の論文が出されており、英国の利権の問題も取り沙汰されている。先述のルワンダの内戦が旧宗主国ベルギーの過去の所業に基づく面もありながら、利権の絡む資源も無かった故にか見放されてきたのとはまるで違う。

ビアフラは50年を経た今でもナイジェリア政治のホットスポットであり続けているが、今や日本でも欧米でも、紛争の当事者であったナイジェリアやビアフラの出身者が身内にいるという方でなければ誰も気にしていないだろう。同じ民族やnation statesをめぐる問題であれば、トルコにおけるクルド人の問題の方が当事者でもない人も話題にしてくるはずだ。

アフリカに絡めて、S・ハンチントンは『文明の衝突』にて「アフリカ文明」なるものを提唱していたが、本心ではヘーゲルだか誰かが19世紀に宣うた「アフリカは人類史の発展に寄与しなかった」と同レベルのことを考えていたのは想像がつく。しかし「アフリカの年」や米国の公民権運動からしばらくを経て、南アフリカでもアパルトヘイトが撤回された1990年代では既にアフリカ内外の黒人をそんな風に「未開人」「野蛮人」と扱えば怒られる風潮があったと予測できよう(2020年代なら一発キャンセルものだ)。ハンチントンはここで叱責を回避するために「アフリカ文明」をぶち上げたものと思われる。
なお同書では「日本文明」も登場するが、これは梅棹忠夫のようなあくまで日本を中心とした世界および文明の理解によるものではなく、第二次世界大戦後の高度経済成長とバブル景気による日本の大国化と反共の消波塊としての日本の存在意義に基づくリップサービスにすぎないといえよう。もしハンチントンが2022年現在でも存命であれば、日本を中華文明の一端かその周縁のように扱っていたに違いない。

チェルノブイリとフクシマ-日本人は「自意識過剰」か?

さてウクライナに戻れば、同じ原発事故でもチェルノブイリであれほど欧州諸国が騒いだのに比べて、11年前の日本の東日本大震災に伴う福島第1原発の事故はさほど騒がれなかったと思い出す方もいらっしゃると思う。それもそのはず、チェルノブイリは放出された放射性物質の影響が欧州全体に広がるという懸念があったからである。何も日本人の大半が、国際情勢は基本的に欧州と北米が動かしているという下記のような指摘を飲み込めず、近代以降自意識過剰のままで居続けているからというだけではない。

イスラム世界対欧州、米国の関係を理解するのは、現代のグローバル世界の中心的な問題を理解することなのだが、われわれはそうしてこなかった。日本人は米国ばかり見てきたといわれるが、実は米国の本筋は見てこなかったのではないか。

西海岸を見ると日系人も多いし、アジア系が全般に幅を利かせている。しかし政治的には米国は厳然と東海岸中心の世界で、それは欧州と一体で中東に直結している。それはわれわれにはほとんど見ることができない世界だ。中国が勃興しようが、政治的には依然として「トランスアトランティック(環大西洋)世界」が世界を動かしており、それは中東、アフリカの支配を基盤にしている。

https://toyokeizai.net/articles/-/122225?page=3

事実、日本人の大半も官民を問わず、震災から2年後の東京オリンピック誘致決定で原発事故のことなど喉元すぎたかのように忘れてしまっているようだ。

なお上記引用の文章の著者は後に別項で中国の台頭に伴い「中東」に代わる「西アジア」表現が台頭するかもしれないだのと書いているが(https://www.jccme.or.jp/11/pdf/2018-07/josei02.pdf)、昨今のウクライナ情勢の注目度を見るにまだまだその機会は遠そうである。
ウイグル人をはじめとする中国領内の少数民族や香港、台湾の問題がウクライナ以前に欧米諸国にてあれほど注目されたのも、中国の台頭による軍事/文民的脅威というよりは、むしろそれに関連して、既にあらゆるセクタを中国に依存せざるを得なくなっている日本のみならず、欧州諸国や米国でもサプライチェーンに中国が組み込まれていて、中国情勢が諸国民の生活を脅かしうるからに他ならないからであった。

結論

なるほど、下記の記事のように人間はあらゆる悲劇や惨事に目を配ることはできないし、それらに対して逐一反応するのは思考停止とも受け取れよう。

そしてキャンセルカルチャーの恐ろしいところは、「叩かないことさえも叩かれる」ことです。

 責めないことを責められないため、人はありとあらゆるニュースに反応しなければならなくなる。これは不祥事に関する問題だけではありません。東日本大震災について毎年追悼のメッセージを発する人が、阪神淡路大震災については言及しないことが責められる可能性もあります。アメリカのハリケーンに同情を寄せて、中国の地震をスルーする問題も指摘されるかもしれない。

 個人的な体験や愛着のあるものについて語ることは自然にできますが、ありとあらゆる惨禍、不祥事について平等に言及することはそもそもできません。そのような行動の行き着く先は、単に、見られるために行う発信であり、思考停止です。

https://bunshun.jp/articles/-/48556?page=1

三浦氏が言う「モラル・タフネス」があるから日本よりはマシと評する当のアメリカこそ「キャンセルカルチャー」の生地かつ本場であるという突っ込みはさておき、しかしながら残念ではあるが、国際世論というか世界の耳目は大概が欧州や北米のインタレストや関心に基づいてしか動いていないし、日本も国際世論というものに便乗するがままということは覚えておこう。

最後に拙稿を関連記事として置いておく。

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