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謎解き・バナナフィッシュにうってつけの日03「アイロニー(イロニー)」


 dig フカボリスト。口がわるい。


 e-minor 当ブログ管理人eminusの別人格。


☆☆☆☆☆☆☆


 どうもe-minorです。


 digだよ。


 少女シビルが「明日チコーキ(シビルはエアプレーンをニャアプレーンと言い間違えている)で来るのよ。」といってる「パパ」ってのは、シーモアにとっては「神」のことだってところまで前回やったね。


 父なる神な。この短編に隠されたコードに従って読めば、どうしたってそうなるわな。だからこそ、赤の他人でしかないシビルの父親のことを、「今か今かとずっと待ってる」なんて言い方になる。


 一見すると、シビルのことばに調子をあわせて、適当にへらへら受け流してるようにしかみえないシーモアのせりふが、じつはことごとく真率なものだってところがこの短編のキモなんだよね。digは「魂の叫び」とまで言ってたけど。


 最後には命まで懸けちまうんだから、そう言っても大袈裟じゃないはずだ。


 まじめなことをまじめに述べても誰も聞いてくれないのが現代だよね。だから大切なことほど茶化しちゃう。これってつまり、ひとことでいえばアイロニー(イロニー)でしょう。


 だな。


 アイロニー(イロニー)は現代ってものの本質だよね。だからシーモアはとても現代的だと思うし、サリンジャーその人も真に現代的な作家だと思う。1919年だから大正8年生まれか。日本だとちょうど安岡章太郎さんと同学年だけど……


 安岡は応召して兵役に就き、満州に配属されている。ちなみに五歳年下の吉行淳之介は、徴兵検査を受けて甲種合格はしたが結局戦地には赴いていない。


 文学史では「第三の新人」と一括りにされるけど、その違いは大きいよね。とはいえこのお二人の作風はあくまで軽妙でしょう。いや軽妙というと語弊があるが、ひとつ上の「戦後派」と呼ばれる大岡昇平・野間宏といった人たちに比べると……


 そちらと比べりゃそりゃ軽いわな。大江健三郎はその「戦後派」の血脈を受け継いでいる。中上健次も相当に「戦後派」を読み込んでたし、表立っては言わないが、村上龍もデビュー前にはジュネやバタイユと並んでそこそこ戦後派のものにも目を通してたと思うぞ。1970年代のアタマだったらそこいらの本屋でふつうに文庫で売ってたし。だが龍よりわずかに年長の春樹はぜったいに戦後派なんて読んでないな。それは『限りなく透明に近いブルー』と『風の歌を聴け』とを並べてみりゃわかる。日本文学史は「風の歌」でいったん断絶してるんだ。けど、あえて系譜を繋ぐとすれば、村上春樹は第三の新人の流れを汲んでるとはいえる。


 ご本人がそういうエッセイ集も出してたよね。で、その春樹さんは『キャッチャー・イン・ザ・ライ(ライ麦畑でつかまえて)』も訳してるし、「バナナフィッシュ日和」の続編というべき『フラニーとズーイ』(新潮文庫)も訳してる。『ナイン・ストーリーズ』こそ盟友の柴田元幸さんに取られちゃったけど(笑)、そうでなきゃこっちも訳したと思う。いちばん影響を受けたのはやはりフィッツジェラルドの「ギャツビー」だろうけど、サリンジャーからの影響もけして引けを取らないんじゃないか。


 『グレート・ギャツビー』からは物語の骨法というか構造を学んで、サリンジャーからはいわば「世界と向き合う態度」を学んだってことか? すなわち、世界に対するアイロニカルな姿勢を。


 そうそう。そう言いたかった。いやそこまで言い切っちゃうと少し図式的すぎるんだけど(笑)、あえて言葉にするならそんな感じ。というのも、先にいった「第三の新人」のものも含めて、やっぱ日本の小説はそこまでアイロニカルになれないんだよね。ふざけることが下手っていうか。


 三島由紀夫だってまじめだもんなあ。


 うん。冗談をいうときも、真剣に冗談をいおうとして必死になってる感じだからね。ご本人の意図はともかくとして、あれはアイロニーにはなってないよね。


 かと思うと、たとえばいまどきのテレビのバラエティーなんかだと、ただたんにふざけてるだけだろ。それはたんなるおバカであって、これもまたアイロニーにはならんわけよ。


 だからようするに、ふざけるのが下手なんだよわれわれは(笑)。そういう意味で、初期の春樹さん……すなわち『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』の村上春樹という作家は、サリンジャーをはじめとするアメリカ文学の風土なしにはありえなかった。あの2作は日本文学としては稀にみるアイロニーを達成している。ユーモラスだしね。あれ以降、ご本人をも含めて、あれを超えるアイロニー小説はこの国には生まれてないんじゃないか。


 春樹のばあい、「語らずに抑圧してたこと」をどっと語りだしたからな。それで多作になり、国民的作家にもなった。サリンジャーも国民的作家といえるが、知ってのとおり異常なまでの寡作なうえに隠遁者になった。その違いだわな。サリンジャーなんて、何しろ一兵士としてノルマンディー上陸作戦に参加したんだから、本気で戦場のことを叙したらノーマン・メイラーみたいになっても不思議じゃなかったんだが……


 注釈として言っとくと、ノーマン・メイラーってのはアメリカにおける「戦後派」の代表ね。いちばん有名なのは『裸者と死者』。今は……というか、もう1980年代くらいからぜんぜん読まれなくなっちゃったけど。


 それはベトナム戦争のせいもあるわな。ともあれサリンジャーって作家は、正面切ってはけっして戦争のことを書かなかった。安岡章太郎にだって一連の「兵隊もの」があるってのに。


 語るには重すぎたってことだろうね。それで、徹底して「日常」だけを描いた。


 しかし内面にはどろどろしたものが煮え滾ってる。そのぶん態度がアイロニカルにならざるをえない。デイヴィッド・シールズとシェーン・サレルノの『サリンジャー』(角川書店)は、サリンジャーの作品は基本的にPTSD文学であり、戦場のでてこない戦争小説だといっている。これは、「バナナフィッシュ」を読むうえでも、ぜったい忘れちゃならない視点だわな。


 というわけで、ずいぶん前置きが長くなったが、テキストのほうに戻ろうか。次はシビルのせりふだね。

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1,499字
全13回にて完結しています。

サリンジャーの短編「バナナフィッシュにうってつけの日」の謎を対話形式で解読。

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