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537.【ソロ活】京芸移転記念事業 公開特別講義 イブニングテラス(赤松玉女学長×山本容子氏×森田りえ子氏)(2024.10.23)

イブニングテラスでのお話は、石崎光瑶展で感銘を受けた「写生」や、作品の前で体感した「いのち」について、まるで「解説付きの答え合わせ」のような時間だった。

(いのちを宿したアートには、観るものを運ぶ境地があり、そのいのちに共鳴する)

(本文より)

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京都市立芸術大学で開催された公開特別講義 イブニングテラスに参加した。
9月のある日、フェイスブックをひらくと、お知らせが飛び込んできて、山本容子さんに会えるなんて、夢のよう! と思い、すぐに申し込んだ。申込番号は31番。

山本容子さんの名前を知ったのは、本の表紙だ。その当時、新刊が出るたびに読んでいた、よしもとばななさんの「TUGUMI」や、江國香織さんの本だ。
素敵な表紙だと感じて、扉をひらくと、山本容子さんの名前があり、記憶した。銅版画という技法を知った。名前を見なくても、容子さんの作品だとわかる。女優のようにきれいで、ネスカフェのCMにも出ていらした。
カレンダーを買ったり、作品展を観に行ったこともあるのに、略歴を目にしたことがない。学ばれたのが京都市立芸術大学だと知って、驚いた。

申込から開催までは1ヶ月以上ある。エントリーはできたけれど、生徒でもなく、美術に造詣が深いわけでもない私が、ホントに行ってもいいのだろうかと、ずっと半信半疑だった。
会場となる大学の講義室は、京都駅から10分ほどの場所だ。18時~19時30分という、夕方からのトークイベントなので、その前に、京都文化博物館で開催されている「生誕140年記念 石崎光瑶 大規模回顧展」を鑑賞した。このことが、すごくよかった。
イブニングテラスでのお話は、石崎光瑶展で感銘を受けた「写生」や、作品の前で体感した「いのち」について、まるで「解説付きの答え合わせ」のような時間だったからだ。

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当日は、雨模様で5時半ごろの京都駅は既に暗く、地図を片手に、京都タワーの前の塩小路通を、大学があるとされる方向を目指して歩きはじめる。
京都駅前のきらびやかなイルミネーションが途絶えると、急に寂しい道となり、人の行き来もなく、店舗もなく、街灯が照らす道の先には何も見えない。ひとりで歩いていると、本当にこの道であっているのだろうかと、不安になる。もう少し歩いて何も見えなかったら引き返そう、と決めて歩いていくと、闇の中に、それらしき巨大な建物が見えてきた。

側面の一部が全面ガラスになっていて、階段状の講義室が見える。受付で名前を告げると、ちゃんと名簿に名前があって、ほっとした。
早く入場された皆さんは控えめで、両脇前から後方にかけて、ばらばらと着席されていて、正面の一番前は空いている。(やった!)と思って、かぶりつきの席に着席したところ、スクリーンが観えにくいことに気づき、正面三列目の通路側の空席に変更する。

前方に座ったため、参加されている皆さんの気配がわからなかったけれど、容子さんや、りえ子さんのファンのかたや、美術関係者、生徒さんたちのようだった。

トークイベントは、

〈~泣かしたこと。泣かされたこと。と、笑ったこと。笑われたこと。とともに。~〉
〈描いたこと。描き続けたこと。そして -考えたこと。考え続けていること。〉

というテーマが添えられていて、卒業生で版画家の山本容子さん、日本画家の森田りえ子さんをゲストに、それぞれのお話のあと、同じく卒業生で画家、学長である赤松玉女さんとともに、「鼎談(ていだん)形式」でトークが行われる。

(「鼎談(ていだん)」って、何?)

この言葉はチラシに書いてあったのだけど、読み方がわからず、調べて初めて、「三人で向かい合って語り合うこと」だとわかった。

開始時間になり、登壇者が入ってくる。
森田りえ子さんから、お話が始まった。

学生時代の思い出を、当時の作品をスライドに映して、話してくださる。
やがて、「写生」という言葉が登場した。
大学を卒業された年に、日本画家 石本正氏が主催する「フランス・スペインのロマネスク寺院と中世都市を巡る、2ヵ月間の写生ツアー」に参加され、ひたすら写生をする日々の中で、「僕はもう、ここには二度と来れないかもしれないから」と、必死で写生をする石本正氏の姿を見て、25歳のときに画家になると決めたと話してくださった。

イブニングテラスの前に訪れた、石崎光瑶氏の個展で、インドやヨーロッパの写生旅行での行程や、おびただしい写生帖の展示を見たばかりだったので、画家の写生旅行がどのようなものなのか、想像ができた。

また、印象に残ったのは、りえ子さんが、菊の写生で、「写生をしている間に咲いていく」という体験を話してくださったこと。
その体験を元にして、〈咲くように描いた〉という、大輪の糸菊の作品『白日』は、第1回川端龍子大賞展で大賞を受賞されている。


(咲くように描く)

このことも、石崎光瑶氏の個展で、大輪の菊を描いた作品の前に立ったとき、丸く盛り上がって花を形作る大菊の、何百枚もの花びらの、一枚一枚の存在感と、内から絶え間なく湧き起こっている息づきを感じて、動けなくなった体験をしたばかりだったので、想像できた。

(写生とは、対話であり交歓のアーカイブだと感じる)

「人からいただいたチャンスは逃さず、飛びこんで取り組んでいると、ご縁がつながっていく」というようなことを、振り返って話されていた。

***

京都市立芸術大学は、2023年に「西京区大枝沓掛」から、京都駅近くの現在地に移転しているが、山本容子さんと、森田りえ子さんは、その前の「東山区今熊野」に大学があった時代に学生だったとのこと。

(今熊野!)

さらに、容子さんの口から「京阪電車」で通っていたという言葉が飛び出してきて、びっくり。

なぜなら、私は、今熊野にある京都女子大学の短期大学部に通っていたから。
短大では絵画サークルに入って、絵を描いていたから。
容子さんとは、一回り以上年齢が離れているし、私が入学した年には、すでに京都市立芸術大学は、西京区に移転していたけれど、京阪電車の七条駅から、京都国立博物館や、三十三間堂、智積院を横目に見ながら、2年間、毎日登った坂を、かつて容子さんも登ったのだと思うと、嬉しかった。

容子さんのお話の中で、(来れてよかった! 聴けてよかった!)と感じたのは、物語を読んで、感受したもの、イメージされたものが作品となっていく過程のこと。

(歌を歌ったり、そのときの自分と対話しながら描くことも)
(必ずしも、文章に書いてあるシーンや、登場するものが描かれているわけではないことも)

早稲田大学の国際文学館で開催されている「山本容子版画展」会場では、村上春樹氏訳の最新翻訳書、カーソン・マッカラーズの『哀しいカフェのバラード』に描いた挿画(銅版画)が、容子さんのアトリエで刷り上がったところが再現されているそうだ。


ベニヤ板に紙テープで貼り付けて、部屋一面に立てかけられて、乾燥を待っているときに、村上春樹ご夫妻がアトリエを訪れたのだという。
そのときのことを、容子さんはイブニングテラスで話してくださった。
それを聴いて、私がなぜ、容子さんの作品が好きなのかがわかった。

文章講座の仲谷史子先生がおっしゃっていた言葉をお借りすると、【小説に流れる三つの河……1〈文章によるもの〉・2〈行間に感じられるもの〉・3〈琴線にふれるもの〉】のうち、容子さんの作品は、2と3の河から届く手紙のようだと思う。
そんな手紙を受けとったら、感無量に決まっている。

最後に、参加者から、容子さんが2005年からライフワークにされているという「ホスピタル・アート」について教えてほしいという質問があった。

病院という、人が一番に「治癒」の力を必要とする場、病気と向き合う患者だけでなく、患者と関わる家族、医療スタッフや、職員の心を、施設に芸術作品を設置することで癒し、ストレスを軽減し、より治癒効果を高めようとする試みは、スウェーデンが発祥で、病院予算のうち、アートに使う割合が法律で定められているという。

いのちに瀕し、治癒が必要な人たちが療養する病院施設にこそ、本物のアートをと語る、容子さんの言葉が響く。

このときも、数時間前に見た、石崎光瑶展で体験したことが甦った。
石崎光瑶展を鑑賞したときのブログから、該当の文章を転記する。

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川の奔流を描いた作品では、音が聞こえ、画面が動き、流れ続ける水の帯の中に巻き込まれている身体を感じた。
大輪の菊を描いた作品では、その色に心をつかまれ、丸く盛り上がる花を形作る、何百枚もの花びらの、一枚一枚の存在と息づきを感じて、動けなくなった。
襖絵を見たとき、部屋の中にいながら、別の世界に行けることを感じた。

(いのち。呼吸)
(ダイナミックで勇壮なものも、かすかで繊細なものも、生きている)
(みえるものも、みえないものも)
(絵に描きとめられた刹那に続く、過去も未来も)
(一枚の作品に紐づけられた、いのちとの対話と、表現することへの追求)

〈転載終了〉

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(いのちを宿したアートには、観るものを運ぶ境地があり、そのいのちに共鳴する)

イブニングテラスでのトークは、とても内容が濃く、深く、もりだくさんで、こんなに話してくださって、時間がなくなるのではないか? と思って時計をみても、時間はたっぷり残っていて、その体験も初めてだった。
不要なことは何もなく、大切なことだけがぎっしりつまっているトークだったのだと思う。
そのことにも、感銘を受ける。

講義室を出ると、京都タワーがそびえていた。

浜田えみな

帰宅後、石崎光瑶氏が、昭和11年より、京都市立絵画専門学校(現 京都市立芸術大学)教授に就任していたことがわかる。

(つながっていた!)

石崎光瑶展のブログはこちら


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