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夢中になりすぎた時間の行方

最近、よく読書をしていると電車を乗り過ごす。

以前は、降りる駅の手前になると、反射的に気がついた。

それは、うっかり読みながらウトウトしていても、しっかり本に集中しているにしてもだ。

15年以上してきた通勤電車に乗る生活をしなくなって、もうじき2年になる。

それまでは、往復3時間から1時間まで、幅感はあるにしても、毎日ずっと電車に乗る生活だった。

電車というものは、満員かどうかもさることながら、毎日決まった時間に、それに乗って、必ず同じところに行くということは、なかなか大変なことだ。

もちろん、今でも出張はあるし、電車にだって乗る。けれども、毎日ではないし、同じ時間に同じ路線、というわけでもない。

しかし、何年もの間、通勤で研ぎ澄まされてきた、電車の降車レーダーが完全に緩くなってしまったのか、最近はなぜか1駅分くらい乗り過ごす。

これが、不思議でならない。

思えば、似たような経験が、2回ほどだいぶ昔にあった。

最初は、小学校1年生のとき。

家で読んでいた本の続きが気になって、そのまま小学校に持っていった。そして、休み時間にそれを読んでいて、ふと気がついたら教室に誰もいなくなっていた。

あれ、さっき前の授業が終わったはずだ。なんで誰もいないんだろう。

窓に駆け寄って外を見たら、体育の授業が始まっていた。しかも、時計を見たら、すでに授業開始から30分くらいたっていた。

なんで誰も声をかけてくれなかったのか、不思議でならなかったが、後で友達に聞いたら、何度もみんなが声をかけたけど、本に夢中になっていて全然聞いていなかった、と言われた。

神隠しにあったように誰もいなくなり、時間の概念がどこかにふっとんだとしか思えないくらい、私は本の世界に没頭していた。

ちなみに、その本は『若草物語』。

今でも、はたと気がついたとき、明るい日差しが教室に差し込み、カーテンが風でゆれていた空っぽの教室をたまに思い出す。

もう一つは、学生時代の冬。

一人暮らしを始めたアパートのキッチンで夜通し読んだ、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』。

軽い気持ちで読み始めたら、どっぷりはまり込み、かといってあまり夜中に煌々と電気がついていると目立つので、部屋の扉を閉めてキッチンの灯りを頼りに、壁にもたれかかって読みふけった。

時間も忘れて、当時出ていた2冊だったかすべてを読み終えた。

軽くのびをして、キッチンからリビングへの扉を開けたら、室内には明るい日差しがさんさんと差し込んでいた。

一夜があけ、翌日の午前10時くらいになっていたのだ。

自分のイメージでは夜明けくらいだったので、本当に驚いたが、その日は午前中に授業が無くて、ほっとしたことを覚えている。

無になった時間の記憶としては、たぶんこの2つが最高峰。

話は現在に戻り、電車を乗り過ごす怪奇現象。

この不思議感覚は、あの2つの夢中になりすぎた読書の時間に近しい。

大人になって、またこの感覚を味わえるとは、これ如何に。

人生っておもしろい。


■Instagramで毎日1~2冊の本紹介と、不定期で写真一行詩の創作をしています。

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