【Lonely Wikipedia】中印関係の実相(1)
最近特に緊張が言われるようになっている中印関係。周恩来の時代にはどのような風景だったのかを見てみたい。
中国和印度之间存在了一条传统习惯的边界线:东段大体上沿喜马拉雅山南麓与布拉马普特拉河北岸平原交界线而行,中段大体沿喜马拉雅山分水岭走向。
東部はヒマラヤ南麓とブラマプトラ北岸の平野部との接合線にほぼ沿って、中部はヒマラヤの分水嶺にほぼ沿って、中印国境は伝統的、慣習的に定まっていたという。
拉達克王國原本向西藏地方进贡。
西のラダック王国については、元々はチベットに貢物をしていたというが、水系で言うと西半分はインダス水系に属するということで、複雑な関係であった。そんなことがチベット問題を複雑にしているのだろう。
1834年,錫克帝國派左拉瓦爾·辛格侵佔拉达克。1846年,不列颠东印度公司赢得第一次英国锡克战争,建立了查漠-克什米尔土邦,占领拉达克地区。
1934年にシク王国がラダックに攻め込み、46年にイギリス東インド会社が第一次シク戦争に勝利し、ラダック地方を占領してジャンムー・カシミール藩王国を設立した。
ラダック王国の部分はもう少し細かくみないといけないのだが、そこをやっていると深みにハマるので、軽く見ると、
41−42年にかけて清はラダックを取り戻すためにシク軍と戦っている。そしてそれと同期して40ー42年にアヘン戦争があり、その後にこのジャンムー・カシミール藩王国の設立となる。
ラダックの情勢と同期するかのように、42年にダライ・ラマ11世が出家し、46年にパンチェン・ラマ7世が摂政をやめ、ダライ・ラマの勉強中は集団指導体制となっていた。
1852年にネパールから清の皇帝に派遣された大使節団(朝貢使)は条約で定められた通りに清国からもチベットからも食糧を与えられず、帰還できたのはたったの一名だけであった。
ネパールの宰相ジャンガ・バハドゥルはこれを見て、清国が阿片戦争で敗れ、太平天国の乱で勃発ですっかり弱体化し、以前のようにチベットに援軍を派遣できないと悟った。また、彼はチベットの国境付近の土地、チベットに蓄えられた富を羨望していた。
そうしたなか、同年にはカサ村でチベットと国境紛争が発生し、1854年にはチベットでネパール商人の暴行が発生し、数人のネパール商人が殺害された。ネパールはチベットが善処しなかったことを理由とし、チベットに1000万ルピーの賠償を要求した。だが、首都カトマンズに来訪したチベットの代表団は50万ルピーまでは支払可能としたため、ネパールは拒否した。
本当は中国語版も見てしっかり確認しないといけないほどぷんぷん臭うのだが、とりあえずここでは日本語版を写すだけとする。
とにかく清の弱体化を見て、南からネパールがちょっかいをかけてきた。
ちょうどこの頃、53年にパンチェン・ラマ7世が亡くなり、56年までパンチェン・ラマは空位となっていた。ネパールのちょっかいは、明らかにこの隙を狙ったものであると言える。
それを受けたためか、55年正月にダライ・ラマ11世が親政を始める。
結局、チベットの代表団は期限までに戻ってこなければ拒否回答と理解してほしいと、政府の最終回答を仰ぐため帰国した。だが、チベットの代表団が戻ってくることはなかったため、1855年3月にネパールはチベットに宣戦布告の書簡を送った。このとき、ラサに駐在していた清国の代表のみならず、清国の皇帝にもその旨を伝えた。
同月、ジャンガ・バハドゥルの弟バム・バハドゥル将軍の三連隊がケルンに向かい占拠し、ククルガートも制圧した。4月末にはチベット軍の主要拠点ゾンガを9日間の激戦の末に制圧することに成功した。
一方、同月にジャンガ・バハドゥルの別の弟ディール・シャムシェルは二連隊でケルンを制圧した。さらにそこから期待へ15キロのソナゴンバを制圧した。
ネパール軍はチベットの南部を占領したが、雨期が来たために戦闘を中止した。その後、ネパールは清国との和平交渉を重ねて、8月に清の使節団がネパールの首都カトマンズに入った。ジャンガ・バハドゥルは使節団に対し、以下の要求を突き付け、このうち1つが認められれば軍を撤退するとした。
* チベットがケルン、クティを割譲する。
* 賠償金1000万ルピーの支払い。
* 清国がチベットを完全な独立国として認める。
だが、清国はこれを認めず、カトマンズにおける和平会談は決裂した。次にシカールゾンで会談が開かれたが、ここでも清国は妥協しなかった。
ネパールと清国が和平会談中、チベットは着々と軍を整備し、11月になると反撃を開始した。同月にケルン、クティ、ゾンガが急襲され、ネパールはケルン、ゾンガは死守したものの、クティは6万2千のチベット軍に奪還された。また、クティではネパール軍は700人の犠牲を被った。
ネパールはすぐさま反撃に出た。ジャンガ・バハドゥルはイギリス東インド会社から大量の食糧を購入して兵を増強、12月にはディール・シャムシェルがこの軍を以てクティを攻撃し、占領した。また、サナク・シンハ・カトリらの軍もゾンガを確保し、西方地域も占領した。
親政が始まって急にチベットの構成が激しくなり、そしてチベットの反撃が人乱楽したところで、12月にはダライ・ラマ11世が突然死んでいる。
一連の戦いで両軍とも損害を出したが、チベット軍の方が被った損害の方が大きかった。加えて、チベットでは内紛が生じ、戦争の継続は困難となった。一方、ネパール側もまた、戦費が農民や市民の負担となり始め、物価の高騰もあって戦争の継続は困難となった。両者ともに戦争の終結を望み、チベットが講和を申し込んできた。
チベットで内紛があったというのは、このダライ・ラマの死に絡んでいるのだろうか。
ネパールに接するシッキムでは
シッキムはネパールとブータンの間にあるインドと中国が直接接する部分で、分水嶺を境とするか南の麓を境とするかの分かれ目にある部分だと言える。そこにあったシッキム王国は、チベット仏教でゲルク派が主流となると、それに対立するニンマ派が建てた国で、チベットの分国であるとも言える。
イギリス領インド帝国時代になると、ネパールがイギリスとシッキムにとって共通の敵とみなされた。イギリス東インド会社がネパールに侵攻したグルカ戦争(1814年 - 1816年)でスガウリ条約が結ばれ、ネパールはメチ川とティスタ川の間の地域を放棄した。その後、翌1815年にシッキムはイギリスとティタリヤ条約を締結し、ダージリンなどを含むティスタ川西岸全域がシッキムに譲渡されたが、同時にシッキムはイギリスの保護国となった。
その一方で、イギリスはチベットとの交易も模索し始め、シルクロードのあるシッキムはその中継点として理想的といえた。それは南下しつつあるロシア帝国がチベットとの関係を深めようとすることを牽制する意味があった。
シッキムは交通の要衝としてイギリス進出の最前線となっていた。
そんなシッキムで、61年にツグプ王が退位し、息子のシケオン・ナムゲルが王位を継承した。同年にシケオン王はイギリスとティタリヤ条約の締結を余儀なくさせられ、その国権をイギリスに委譲した。
この辺りもしっかり見ないと背景はわからないが、中国からどんどん離れてしまうので、今は流れだけ。
とにかくそんなことがあって、一方で西方面では、
1865年印度测量局官员威廉·约翰逊绘制了一条“约翰逊线”,私自将包括阿克赛钦在内的近三万平方公里的土地划给了英属印度,使阿克赛钦变成英印克什米尔的一部分,但英国政府并未知会当时的中國政府。
65年、インド測量局の役人ウィリアム・ジョンソンが「ジョンソン・ライン」を引き、アクサイチンを含む約3万平方キロメートルの土地を英領インドに私的に割り当て、アクサイチンを英領インドのカシミール地方の一部としたが、英国政府は当時の中国政府に知らせることなく、このラインを引いた。
どうもイギリス東インド会社がどんどん清に対して圧力をかけていたようだ。
アクサイチンはカラコルム山脈を境と考えれば中国側であるが、インダス川はカラコルムを回り込む形で支流を持っており、しかもそれよりも東側は水系というよりも、海には流れ出さずに池や湖になっているので、分水嶺という点では判断は難しい。
シッキムでは
1874年4月、シケオン王は崩御し、弟のトゥトブ・ナムゲルが王位を継承した。トゥトブ王の代になると、イギリスとの関係悪化が再燃した。
一方チベットでは82年にパンチェン・ラマ8世が亡くなり、若年のダライ・ラマ13世とパンチェン・ラマ9世の時代となっていた。
再びシッキムでは、
父の代に結ばれた1861年のティタリヤ条約の締結により、シッキム王国は国権を奪われていたが、宗主国チベットはイギリスの帝国主義を嫌っていた。チベットはこの条約を無視し、1887年にジェレプ・ラ峠を越えてシッキム領内で要塞を建設し、兵を送り込んだ。
イギリスはトゥトブ王にチベットの要塞建設について抗議を行ったが、トゥトブ王はチベット・清朝の力を背景にこれを拒否した。イギリスは要塞のチベット軍を撃退したのち、チュンビ峡谷を占拠した。これが1888年のシッキム遠征であり、チベット遠征の前哨戦となった。
これは、チベットの摂政が亡くなった後の混乱によって起こったことのようで、複雑すぎて細かな事情はよくわからない。
ダライ・ラマ13世のことは考えるとちょっとおかしくなってしまいそうなので、深くは突っ込まない。
でもこの辺は一応見ないとまずいのだろうな。
辛亥革命で清朝が消失すると、イギリス帝国はチベットに介入し、1913年にイギリス帝国インド領に亡命中のダライ・ラマ13世をラサ市に戻し、政権の樹立を目指した。1913年から1914年にかけてイギリス帝国インド領北部の避暑地シムラ(Simla、Shimla)でイギリス帝国、中華民国、チベットで会議が実施された。イギリス帝国全権代表ヘンリー・マクマホンは、イギリス帝国インド領の国境線を北上させる条項(いわゆるマクマホンラインのこと)をチベットと締結したが、中華民国代表は署名を拒否した。
現在、マクマホンラインは、中華人民共和国とインドの事実上の国境線として機能しているが、シムラ条約に署名していない中国側は違法と主張している。インド側は合法的な国境としているが、シムラ条約はチベットとイギリス領インド帝国間で結ばれており、中国側は、チベットは主権国家でないため、条約締結の権限が無いと主張している。
要するに、ダライ・ラマ13世によるチベット乗っ取り計画だと言える。イギリスに領土を割譲してでもチベットに戻り、実権を取り戻したかったのだろう。シッキムでも、ダージリンの割譲をめぐって同じようなことがなされており、ゲルク派に反対するシッキム王国に対して、ゲルク派の主導する宗主国たるチベットが、シッキムの一部を英国に譲ってでも自分たちの主権を強化するために影で糸を引いていたのではないか。ダライ・ラマとその取り巻きは、繰り返しチベット自体を他国に売り払うようなことをしながらその権勢を強めるような行動を常にとっているというのは注目すべきなのだと思う。
中国的な立場で考えれば、マクマホン・ラインで東側を分水嶺で境にするのならば、西側でのアクサイチンは譲れないだろうな、という感覚は受ける。その辺りはまた後で考えたい。
ここから第二次世界大戦が終わるまでは、インドと中国の直接の関わりは、援蒋ルートはあるとは言え、全体的にそれほど明らかではないのでとりあえず戦前はここまでできりとする。
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