【Lonely Wikipedia】ブロック経済
第2次ニクソンショックについては、何となく見えてしまったような感じはするが、もう少し過去から遡って歴史的意義付を探ってみたい。
第2次ニクソンショックのモデルとなったような、世界恐慌後に金本位離脱が続出した時に現われたブロック経済について。
ブロック経済(ブロックけいざい、英語: bloc economy)とは、世界恐慌後にイギリス連邦やフランスなどの植民地又は同じ通貨圏を持つ国が、植民地を「ブロック」として、特恵関税を設定するための関税同盟を結び、第三国に対し高率関税や貿易協定などの関税障壁を張り巡らせて、或いは通商条約の破棄を行って、他のブロックへ需要が漏れ出さないようにすることで、経済保護した状態の経済体制のこと。
世界恐慌以後、1930年代のブロック経済を意味する。
The sterling area (or sterling bloc, legally scheduled territories) was a group of countries that either pegged their currencies to the pound sterling, or actually used the pound as their own currency.
ブロック経済の代表として、少なくとも私などは常識のように教わってきた英連邦のスターリングブロック。その説明は、スターリングポンドにペグした通貨やポンド自体を通貨として使っている国のグループ、となっており、どこにも関税同盟などという言葉は出てこない。説明中にも関税という言葉は一つも出てこない、つまり、少なくとも英語の説明において、スターリングブロックが関税同盟だ、という理解は一切なされていないことになる。
一方で
The British Empire Economic Conference (also known as the Imperial Economic Conference or Ottawa Conference) was a 1932 conference of British colonies and the autonomous dominions held to discuss the Great Depression. It was held between 21 July and 20 August in Ottawa.
The conference saw the group admit the failure of the gold standard and abandon attempts to return to it. The meeting also worked to establish a zone of limited tariffs within the British Empire, but with high tariffs with the rest of the world. This was called "Imperial preference" or "Empire Free-Trade" on the principle of "home producers first, empire producers second, and foreign producers last". The result of the conference was a series of bilateral agreements that would last for at least 5 years. This abandonment of open free trade led to a split in the British National Government coalition: the Official Liberals under Herbert Samuel left the Government, but the National Liberals under Sir John Simon remained.
これはなかなかにテクニカルな話で、イギリスが金本位から離脱してスターリングブロックを作った翌年に、そのスターリングブロックには参加していないカナダのオタワにおいて別の会議が開かれ、そこで大英帝国内の関税について、域内と域外で分けるような一連の二国間協定について合意された、となっている。関税に関しては、ブロックではなく、二国間協定の積み上げと言うことなのだ。つまり、関税同盟なるものは、実体としては存在しなかったことになる。
そしてそれに先だって、
The Tariff Act of 1930 (codified at 19 U.S.C. ch. 4), commonly known as the Smoot–Hawley Tariff or Hawley–Smoot Tariff, was a law that implemented protectionist trade policies in the United States. Sponsored by Senator Reed Smoot and Representative Willis C. Hawley, it was signed by President Herbert Hoover on June 17, 1930. The act raised US tariffs on over 20,000 imported goods.
悪名高いスムート・ホーレー法がアメリカで採択され、関税の引き上げがなされている。つまり、関税の問題については、陸続きながらアメリカ市場から閉め出されたカナダが自衛的に大英帝国内とアメリカとの間の関税を引き上げるという措置を要望し、イギリスはブロック化のようにならない範囲で二国間協定の積み上げと言うことでそれに応えた、といえるのではないか。
それを念頭に、日本語版ブロック経済をみてみると、その説明は、違和感しか感じない日英綿製品競争のことから書き始められている。それは後から見るとして、まずは本題のブロック経済なるものに迫ってみたい。
1929年秋に世界恐慌が発生すると、各国は金本位制を放棄した。
1930年代、各国は植民地を抱え込みブロック経済化を進めた。それぞれのブロックは通貨圏ごとに分かれた。
* スターリングブロック(英語版)(イギリス・ポンド圏、オタワ協定(英語版))
* フランブロック(フランス・フラン圏、ルール占領)
* マルクブロック(ドイツ・オーストリア、ライヒスマルク(・オーストリア・シリング)圏、独墺関税同盟案→ラインラント進駐)
* ドルブロック(アメリカ・ドル圏、ニューディール政策)
* 円ブロック(日本・円圏、日満経済ブロック)
* Eastern Bloc economies(東側諸国・ソビエト連邦の経済、Soviet-type economic planning・五カ年計画)
第1次世界大戦中に金本位制離脱の動きがあり、その後各国とも金本位に復帰し、いわゆる世界恐慌の時に金本位に復帰していなかったのは、主要国では日本だけであった。そして、30年に浜口内閣が旧平価での金解禁を行うが、翌31年9月にはイギリスが金本位から離脱、その年末には日本も再び金本位から離脱した。
大戦中の金本位離脱についてはまた別途考えるとして、日本は、関東大震災があったという事情を別にしても、主要国が次々金本位に復帰する中、その議論が昭和金融恐慌につながるなどして、結局世界恐慌後まで金解禁できずにいた。そんな中で、円安を利用してアメリカへの生糸輸出を急拡大させる、ということもあったのだろう。金本位をとっていない、ということは、輸出は必然的にドルで行われることとなり、アメリカは紙幣を刷るだけでただ同然で生糸を手に入れられる、という状況になったことが、生糸輸出を促進したのだと言える。本来ならば、輸出が増えれば円高となってしかるべきなのだが、金兌換がないという事でむしろ経常収支とは関わりなく円安が進むと言うことになった。そうして、生糸輸出農家の手取りはいずれにしても増えにくい、という構造が出来ていた。そして28年(前の記事で27年と書きましたが、28年のようです。)にはシカゴの商品取引所に生糸が上場され、それによって生糸価格がドル建てで決まるようになり、そしてその価格自体の暴落が始まった。金解禁の如何に関わらず、生糸輸出は風前の灯火で、むしろ旧平価による解禁は、生糸価格を努力に見合ったものに戻すことで、その復活に資するものであったと言える。
一方で、安い生糸を前提にして様々な利用を広げてきたアメリカにとって、日本の旧平価での金解禁というのは、打ち出の小槌を失うようなものであった。そんなことも、金解禁に先だっておきた世界恐慌のきっかけである29年10月の株価暴落の原因になったと言えそうだ。
そんなことから、最初に出ていた綿の話になる。
原料の輸入
ニューヨーク棉花取引所の調査によれば、1929~1930年度の世界棉花の五割以上をアメリカが産出していた。アメリカ棉は割高ではあるが品質が良かったため、一番にアメリカ、二番にイギリスで消費されてきた。しかし、外国棉の品質が上がり、不作でアメリカ棉の品質が落ちたため、また、日本がイギリスから中等品や下等品の大市場を奪っていたため、イギリスは割高なアメリカ棉の使用を減らし、代わりに割安なインド棉を使用するようになった。
1932年、インド棉が不作となりアメリカ棉と同等まで割高となったため、日本はアメリカ棉の下級品を代用した。同年、インドの紡績業界は損害を受け、日本綿布がダンピングされているとして、関税引上げを要求した。インドは、ダンピング防止法を制定して日本へと適用するため、1933年4月に日印通商条約廃棄を日本に通告した。
日本が金解禁すれば、貿易収支のバランスが求められるために、何らかの形でアメリカから日本への輸出が必要となる。そこで選ばれたのが綿と言うことになりそうだ。元々農産物としての綿はインド原産であると考えられ、日本も主としてインドから綿を輸入していた。それを中国産に切り替えようという動きはあったが、アメリカのものを、というのは随分遅れて、というか、おそらくこの時期になって始めて動き出したのではないか、という感覚を持っている。(何ら資料的な裏取りもしていません。)だから、アメリカ綿が割高で品質が良い、などというのは、基本的にはありえない話で、割高というのが当てはまるとしたら、それはむしろ円安ドル高によるものであろうと考えられる。それが、金解禁によって品質並みの値段になってきたので、それを輸入してインドの綿製品の市場を奪った、ということになるのではないかと感じる。参考で挙がっている新聞の内容は、年号を追うだけでも全くつじつまが合わず、しかも英国植民地のインドと直接日印通商条約を結んだ、というのも信じがたいので、特に調査もしていないが、おそらく偽記事なのではないか、という個人的感覚を持っている。
世界恐慌や第2次世界大戦の因果に直結するブロック経済の話は、内容が余りに多岐に亘り、そしてすくなくともWikipediaで得られる情報も、上のようになかなかそのまま信じられるものが少ないので、これ以上はLonely Wikipediaのプロジェクトでは進められそうもない。