【Lonely Wikipedia】イタリア統一
ナポレオン失脚後のウィーン体制成立からずっと続いていたイタリア統一の動きが1871年に決着したので、そこまでの流れを見てみたい。
さて、イタリア統一については何を軸に据えるのか、という事が定まらないと、何もかけない。イタリア統一がローマの併合によって終わったことを考えると、軸となっていたのは教皇領についてであるのではないかと考える。
教皇領(きょうこうりょう、ラテン語:Status Pontificius, イタリア語:Stato Pontificio)は、ローマ教皇あるいはローマ教皇庁の支配していた領土である。歴史的には国家としての体裁も持ったため、教皇国、教皇国家とも呼ばれる。
教皇(パパ)と言う称号は、ローマ司教にだけ特別に認められるものであると考えられている。それは、ローマ帝国においてローマ皇帝に戴冠できるのは誰なのか、という、正当性の根拠への議論につながり、そしてそれ自体正教とカトリックの違いなど様々な問題の根源になっていることなので、ここでそこまで深入りはできないが、とにかく西ヨーロッパにおいてはローマ司教が特別な立場にあったという出発点から始めたい。
476年に西方正帝が廃止され、一般的には西ローマ帝国の滅亡と呼ばれる状態となった。それに相前後して西ローマ帝国の領域にはゲルマン民族が絶えず流入しており、そして、ローマ司教はそれらの勢力の上にあることを示すために様々な努力を重ねた。そんな様々な取り組みの中で、752年に、フランク王のピピン3世が北イタリアを支配していたランゴバルド王国を討伐し、その所領をローマ教皇に寄進することで、メロヴィング朝からの簒奪によるカロリング朝の成立を正当化した。ローマ教皇ザカリアスは、その寄進を受けることで簒奪を支持したことになり、それは教会の世俗化、寄進によって方針が変わりうること、という、正義の根源としてはあるまじき方向に一歩を踏み出したことになる。このあたりは本当はもっと詳しく調べないときちんと書けないのだが、今はそれが本題ではないので、ざっくりとした印象論で話を進めたい。
その後も、ヨーロッパの情勢というのは、この話を軸に展開してゆく。イタリアに関わる部分では、中世に教皇派と皇帝派の争いがあった。これは聖職者の叙任権を巡って神聖ローマ皇帝とローマ教皇との間で起こった争いに端を発した争いだが、元々がその人事権という利権に関わる争いであったがために、大義というものは見出しにくく、次第に仁義なき戦いのようになり、それがイタリアの諸都市を二分した中世の絶え間ない抗争につながってゆく。教皇派、皇帝派という名乗り自体が名目化し、単なる争いのための旗頭となっていったのだ。
元々の皇帝派自体は、1254年に教皇の意を受けたフランス王ルイ9世の弟、シャルル・ダンジュー(カルロ1世)が神聖ローマ帝国ホーエンシュタウフェン朝を滅亡させたことによってなくなり、それ以降教皇領は安泰となった。
1303年にフランス王フィリップ4世と教皇ボニファティウス8世の対立からアナーニ事件(フランス軍がアナーニの別荘にいた教皇を襲撃した事件)が起こり、教皇の権威は失墜した。その後フランス出身のクレメンス5世は、フィリップ4世の意向に従って教皇庁を南フランスのアヴィニョンに移した。以降70年に亘ってアヴィニョン教皇庁が続き、引き続いて教会大分裂が起こるなど、ローマ・カトリックは混乱の時代を迎えた。
その後、ずっと飛んでナポレオンによって教皇領はフランスに併合され、その失脚後にウィーン会議で他の公国や共和国と共に復活した。それによってイタリアでは、オーストリア帝国に属する北東イタリアのロンバルド=ヴェネト王国、北西部のピエモンテとサルデーニャ島を支配するサヴォイア家のサルデーニャ王国、中部イタリアには教皇国家、トスカーナ大公国、モデナ公国、パルマ公国、マッサ・カッラーラ公国(1829年にモデナ公国に併合)、ルッカ公国(1847年にトスカーナ大公国に併合)、サンマリノ共和国そして南イタリアにはブルボン家の両シチリア王国が成立した。
さて、ここでイタリア統一の王を輩出したサルディーニャ王国のサヴォイア家を見てみたい。
サヴォイア家の実質的な祖はアメーデオ8世であると言える。彼は、先程飛ばしてしまった教会大分裂の後に、公会議がバーゼルからフェレーラに移った時に、バーゼルに残った公会議派に担がれてフェリクス5世として対立教皇となった。10年で公会議は解散し、廃位となって還俗するが、それによってサヴォイア家の家名の基が築かれたと言える。ただし、その後サヴォイア家は直系相続されたわけではなく、しばしば若年で当主が代わり、また傍系にも変わったりもしており、そしてその支配実態の記録も余り明かではない。つまり、サヴォイア公を名乗りながら、本当に継続的にサヴォイア地域を支配していたかは明かではないのだ。
そのサヴォイア家の実態が確認できるようになるのは、スペイン継承戦争の後にシチリアの領有権を得て、それをサルディーニャと交換することでサルディーニャ王国を打ち立てたことからだと言える。つまり、歴史があるように見えながら、スペインの王位継承のどさくさでシチリアを手に入れ、そこからのし上がってきた新興勢力だと言えるのだ。
ただ、後に王となるカルロ・アルベルトは傍系の出身でウィーン会議後に中興となったサルディーニャ王国の摂政を務め、民主的なスペイン1821年憲法に倣った憲法導入を主導した人物であり、自由主義的であったと言える。そんなカルロ・アルベルトが1831年に国王となり、反フランス、親オーストリアの外交姿勢をとりながら、議会を開設するなどの改革を進めた。減税などの自由化政策をとりながらも財政を黒字化し、農業やインフラ投資を進めた上、文化事業も熱心に行った。
外交については、オーストリアが参加した神聖同盟のために、スペインにおいてカルリスタを支持することになり、そのあたりのねじれがその後のヨーロッパの混乱にずっと響いていそう。
このように開明的であったカルロ・アルベルトが非難されるのは、1833年に青年イタリアという革新系のグループの蜂起計画が発覚し、その設立者であったジュゼッペ・マッツィーニに死刑判決が出されたことに依るのだろう。このあたりの経緯は余り明かではないが、過激化したカルボナリという秘密結社に見切りを付けたマッツィーニはカルロ・アルベルトに期待をかけていたと思われ、その為に公開書簡までも送っているが、それに対しておそらく青年イタリアの方でも過激分子が入り込み、一方で政府側でもそれを弾圧する動きがあったのではないかと思われる。フランスで革命運動に参加していたフィリッポ・ブオナローティという過激派の人物がわざわざサルディーニャ領で蜂起を起こし、それによってカルロ・アルベルトとマッツィーニの連携が台無しになってしまったと言える。もしその連携が成立していれば、イタリア統一はもっと早く、なめらかに行われていただろうに、残念なことだった。サルディーニャ王国ばかり見ているが、実際には他の地域の方が統一イタリアへの動きは速く、大きく動いていた。しかしながら、1831年春になるとオーストリア軍がイタリア半島へ侵攻し、それによって統一運動は各個撃破され、瓦解してしまった。順序が逆になったが、それからカルロ・アルベルトの改革が本格化することになる。
そうしているうちに、1848年革命が起きる。このあたりも実態がなかなか見えにくいが、オーストリア支配下にあったロンバルディアが、何とかしてサルディーニャ王国を巻き込みたいと考えており、一方カルロ・アルベルトはずっと親オーストリアでやってきていたので、そんなに簡単には立つことはできなかった。そこで事情はわからないが、おそらく教皇ピウス9世の支持/依頼があって、ロンバルディアに兵を進めてほしい、という話がでてきたのではないかと思われる。3月23日にカルロ・アルベルトはそこへの出兵を宣言し、それによって当然のことながらオーストリアとは戦いになった。サルディーニャ王国は勝利を重ねていたが、そこに5月2日、ピウス2世が支援を打ち切るとの知らせが入ってきた。これによってカルロ・アルベルトは錦の御旗を失った。更に共にオーストリアと戦っていた両シチリア王国の14000の兵が、教皇につられる形で出されたフェルディナント2世の命令で撤退を始めた。ミラノとパルマ公国はサルディーニャへの参加を決めたが、もはや戦う力のなくなったカルロ・アルベルトは敗戦を重ね、結局翌年には退位を強いられ、ポルトガルへ逃れてそこで没した。
その49年に、ローマでは無政府状態となった教皇領でローマ共和国が成立し、ジュゼッペ・マッツィーニ、アウレリオ・サッフィ、カルロ・アルメッリーニの3人による三頭政治が行われるようになった。しかし、すぐにルイ・ナポレオン率いるフランス軍に降伏し、わずか5ヶ月で幕を閉じた。その後は準備の10年間と呼ばれる時期となった。
この後60年にフランスが介入してオーストリアを追い出すことになったが、このあたりはフランスと関わりの深いカヴールとガリバルディという人物がやたらと目立ってノイズになっており、個人的にどちらも好きになれないので余り真剣に追う気になれない。ただ、実際の所はかなりの所ヴィットリオ・エマヌエーレ2世が主導権を握っていたのでは、と感じる。また機会があったら追ってみたい。とにかく、60年に両シチリア王国などがサルディーニャと合併、61年にイタリア王国が建国され、65年にフィレンツェに遷都。66年に普墺戦争に乗じてヴェネトを回収し、70年10月にはローマとラティウムでイタリア王国への合併の賛否を問う住民投票を受けて併合が行われ、71年7月1日にフィレンツェからローマへの遷都が行われた。
本当は歴代最長の教皇任期を務め、第一回ヴァチカン公会議を開くなど、何らかの筋を持っていたはずのピウス9世との関わりがもっとはっきりしないと、最初に上げたテーマの教皇領との関係がしっかり見えてこないのだが、それをやるとイタリアだけでは到底収まらなくなってしまうので、ちょっと今は手が出せない。ただ、カルロ・アルベルトにしても、ピウス9世にしても、オーストラリアから戦争によって独立を勝ち取るというのは選択肢としてはかなり低いプライオリティであったと考えられ、それがあまりに強い独立運動の嵐にうまく対処できずによくわからない感じになったのではないかと思われる。確かに1848年革命の全ヨーロッパ的な広がりは、そのまま世界大戦的なものに広がっても不思議ではない空気であったと思われ、そのきっかけとなったという歴史的汚名は何としても避けたかった、ということがあるのではないかと感じられる。カルロ・アルベルトが退位することによって準備の10年間という安定が訪れたのは、まさにカルロ・アルベルトが様々な混乱要因を全て背負って退位したが故であり、身を持ってイタリア、ひいてはヨーロッパ全体に平和をもたらしたのだともいえそう。私がカヴールやガリバルディを好きになれないのは、そういった責任感の感じられない、単なる煽り屋のように見えるからだ。勇ましいことを言うのは簡単だが、それによって悲惨な目に遭うのは庶民である、と言うことがわかっていたのが、カルロ・アルベルトであり、ピウス9世だったのでは、と言う気がする。ただ、ピウス9世に関しては、そこまで言うのはちょっと過大評価かな、と言う感じもするが、とにかく今はちょっと手が出ない。
Photo from Wikipedia 1970s
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