スーパーマリオ
1年くらい前にSwitchを購入したけど、ただのインテリアとなっていた。
息子もそろそろテレビゲームができるだろうと、先月くらいにスーパーマリオのソフトを購入した。
わたしが初めて購入してもらったファミコンソフトもスーパーマリオだった。
わたしがやっていたスーパーマリオの画像はブロックブロックしたものだったが、今のスーパーマリオの画像の綺麗なこと!
多分、微細にみればブロックの塊なんだろうけれど、ブロックの片鱗もない。
時代は進歩しているんだなあと感嘆した。
どんどん上達していく息子。
基本的な動きは変わらず、Bダッシュに、ジャンプ!
きのこやフラワーやスターは変わらず。それ以外の変身アイテムは増えたけれど、なんとかわたしも対応できる。
そして、あっという間にふたりでピーチ城まで行って、クッパを倒してしまった。
クリアしたら、それで終わりではなく、コインを集めるミッションなど、通常ゲームコース以外にも遊べるようになっている。
わたしは、できるだけ最小限の力と最小限の時間で効率よくゲームをクリアしようとする。
息子は、なぜか、1upをとるために何度もクリアした面にいく。99き(いっきの漢字がわからない)にしたいと言うのだ。そして、よくわからない穴にわざと落ちてみたりする。
わたしは少しイラっとする。「目的はコインを集めることだから、何度も同じ面にいく必要ないし、穴に落ちる必要もないじゃない。」とむくれる。
息子はそんなむくれている母のことはお構いなしに我が道をゆく。
でも、落ちる必要のない穴に落ちてみると、隠し土管があったりするのだ。
目的達成には関係のない土管だったりもするのだけど、息子は隠れていた土管を見つけて嬉しそうに笑う。
そんな息子を見て、最短ルートでゴールすることしか考えられなくなっている自分に気が付く。
それはそれで、最小限の力で、時間で、効率よくゴールをしているのだから、結果としては何の問題もない。
でも、隠れていた土管の中の世界は知らないままのゴールだ。土管があることにすら気が付かないでのゴール。
無駄な道の先にある、新しい発見。そんな可能性に目をつぶってのゴール。
それは、失敗の少ない最高のゴールでもある。
でも、なんだか、味気ない。
無駄なことをして、隠れた土管がなくて、結局死んでしまうこともあるのだけど、新しい発見をしたときのあの喜びを考えると、無駄なことをしてみるのも悪くないと思ったりして。
土管を見つけても、土管に入るかどうかの選択もある。
まあ、ゲームだから、見つけたら入るよね。
やり直しがきくから。
やり直しがきかなくても、人間には好奇心があるから、隠れていた土管を見つけたら、きっと、入らずにはいられない。
土管の中の世界を見ずにはいられないのだ。
土管の中の世界は、とてつもなく素晴らしい世界かもしれないし、とてつもなく辛い世界かもしれない。
土管の中の世界がどんな世界であろうと、入ったら最後。
必死でゴールするしかない。
でも、土管の中でも、また無駄なことをしたりして。
永遠のループ。
人生の縮図。
単なるゲームと侮るなかれ。人生勉強になる。
スーパーマリオが長年愛されるのは、そんな奥深さがあるからかもしれない。
そして、子どもは、大人がいつの間にか見逃すようになったものを、自然に発見する。
子どものすごさに改めて気が付く。
つまらない大人になってしまっている自分に落ち込む。
恐るべし、スーパーマリオ。
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