家事がみんなのものになった時代へ
何もすることがない休日。
ちょこっとお散歩をして、あとは家で過ごした。
今日は朝からお天気がよい上に、梅雨っぽくない爽やかな気候で、遊びに行くには絶好の日なのに、特に用事はなく、やることもなく、私は家でのんびり時間を潰した。
夕方になり、ふと、
こういう日は、窓を全開にして掃除機をかけたり、家中の窓を拭いたりすると良いんだ。
…と思い付いた。
掃除や窓拭きをして過ごせば、その後、きれいになった家のなかで、「あぁ今日もスゲー頑張ったなぁ~」と達成感&成就感に満たされるし、窓ガラスに映る青空を見て「すごーく綺麗だなぁ」と幸福感を味わうことができる。
特に何かご褒美がもらえるわけではないけど、明日の自分に美しくなった居場所をプレゼントすることができる。
これって、とても素敵なことじゃないかな。
何もすることがない一日も贅沢なことだけど、やっぱり何かをして、目に見えるかたちで、今日一日の生きた証を残したいと思う。
何もしないまま、こうして生きている時間が消費され消えていくのが、非常に勿体ないと感じるのだ。
そんなときは、家事をするのが一番手っ取り早くて簡単だ。
同じことの繰り返しではあるが、一日の過ごし方としては最良だと思う。家事をすると満足感や成就感が得やすい。それに手を動かすから脳トレにもなるし、体をマメに動かすから簡単な体操にもなる。
家のなかが整う上に、心身にも良いし、すごく健康的になれる。
今や、家事は老若男女関係なく、皆が必要に応じて自由に取り組めるようになったけど、一昔前はそうではなかった。
私が子供の頃は、「家事は女がするもの。家事のお手伝いは子供がするもの。成人した男は家事をしてはいけない。」という固定観念で皆がガチガチだった。
スーパーで食料品を買うことすら…、いやいや、スーパーマーケットに入ることすら、男性には恥だ!みっともないことだ!と言って世のオジサンたちは絶対に行かなかったのだ。(今じゃ信じられないけど汗)
更に、私の親世代の「昔の主婦」の皆さんは、家事全般全てが「女の仕事」だったから、ずっと家にいて、家事だけをこなして過ごしていた。また、子供がいる場合は、家事だけでなく子育ても主婦が一人で担っていた。
毎日、衣食住の始末でやることがいっぱい。日々の暮らしを回していくことで精一杯の生活。気がつくと、子供はいつの間にか大きくなっていて、夫は外の世界に居場所をつくって社会で名をあげて、自分は自由な時間を持つことなく、いつも家と家族の世話に追われて年を取り、老いて人生を終えていく。
私には耐えられないけど、昔はこれが当たり前だったのよ。
今や家事は、「女がやるもの」から「男女関係なく皆がやるもの」に変化していった。
最近は、今どき家事をこなせないようでは、人として大丈夫か?と問われるようになった。人間らしく生きるための生活の基本…という位置付けである。だから、性別や年齢に関係なく、皆が自由に取り組むことが普通になり、当たり前になりつつある。
そう、お茶くらい自分でいれられないようでは恥ずかしい…という価値観に変わってきたのだ。昔と比べたら、家事は皆のものになり、気楽に自由に楽しんで取り組めるものになった。
そんな社会を、私たちは生きている。
そう思うと、私は良い時代を生きているなぁ…と思う。有償も無償も関係なく、自分の暮らしと命に関わる仕事は全て尊いのだ。
だから、そこに貴賤の差をつけず、平等に愛をもって価値付けしていくことが大切だ。
どっちが偉いとか、どっちが価値があるか無いかとか、どっちが上でどっちが下か…なんてことは一切関係なく、必要なことをする、大事なことをする、心を込めてやる、愛をもって降り組む。それで良いのではないか…。
◇◇◇
外に干した洗濯物を取り込みながら、ほんのり朱く染まったそらを見上げる。
風が冷たくて心地よい。
何もしないまま一日が終わったけど、そういう時間も愛しいと感じていきたい。
でも、何もすることがない休日は、義務や責任じゃなく、単に自分の心地よさのために掃除機をかけたり、窓を拭いたりしてみよう。
自分がいる場所を整えていくことに、清々しさを感じたり、喜びを感じたり。そういう感性を大切にしていこう。
これが「心の豊かさ」というものなのかな…。
私が取り込んだ洗濯物を、夫がたたむ。
今日の夕御飯は何にしようかね?
夫の手のなかにある洗濯物から、お日様の温かい香りがした。