教師時代に学んだ「人を褒めること」の大切さ
私が中学校の先生をしていた時、教科の授業中、そのクラスの生徒がいつもと様子が変わっていて「あれ?どうしたのかな?」と感じることがたまにあった。
大抵の場合は、そのままスルーするか、皆がノートを取っている間に、そっと近寄り「どうしたの?」と小声で声をかけていた。
大人でも、娑婆で生きていれば、毎日いろんなことがある。
いい時もあれば、嫌な時もある。いろいろあって落ち込んでいたり、いじけていたり、曇った表情をする時だってよくある。
こういう時に、顔見知りの人から、「どうしたの?何があったの?」と根掘り葉掘り聞かれてしつこく追及されると、「嫌だなぁ、うざいなぁ」と面倒臭く嫌に感じるものだ。暗くしていても、誰かに構ってもらうことを求めているのではなく、「放っておいてほしい」「そっとしておいてほしい」と純真に一人でいたいことだってある。
大人でも一人になりたい時があるんだもん。中学生だって同じだろう…。
そう思うから、大抵の場合は、私も何も聞かず、そっとしておくようにしていた。
人から聞かれても、うまく言葉では説明しにくい感情だってあるだろう。だから無理やり話させようとはしない。必要ならば、向こうから話してくるはずだ。話したい相手を選ぶ権利だって、相手にある。だから、向こうからアクションを起こすまで、私は「見守る」というスタンスをとっていた。
これも「思いやり」のかたちだと私は思っている。
そうして一日過ごして、帰る頃にケロっとしていれば、その子なりに、自分の心の中で何か踏ん切りをつけて、自力で沼から這い上がった…ということだろう。
そうそう、それが一番ベストなかたちだ。友達とじゃれ合いながらケロっと走り去る生徒の後ろ姿を見送りながら、私は「よかったよかった」ホッと胸をなでおろした。
◇
ところが、たまに、明らかに「これはちょつとヤバいぞ」と感じる時もある。
表情がおかしい。目つきが険しい。あるいは暗い。授業中なのに泣いていたり、怒りをむき出しにしていたり、体調が悪そうな時もある。
ただでさえ多感な年ごろだから、情緒不安定な時だって、たまにはあろう。
でも、些細な変化でも、「ん?」と感じたときは、見逃してはいけない。何か重大なサインかもしれないからだ。
例えば、教科担任で私が授業をしているクラスの生徒で、気になる状態だと察知した場合は、授業が終わった後、職員室に戻った時、必ず担任の先生に報告した。
◇
中学校は教科担任制なので、授業に行った時、生徒の様子で心配なことがあれば、必ず担任の先生に伝えることがルールになっている。これは「チクる」とか「密告する」とか…等、そんなネガティブな意味でやっているのではなく、情報の共有である。
中学校は「学校の教員や職員全員が一枚岩になって、生徒たちを皆で育てていく」という価値観で運営されているので、気になる情報を独り占めせず、きちんと伝え合い、皆でチームを組んで生徒たちをサポートしていく。
この体制を分かりやすく例えると、各家庭で子供たちの様子について、夫婦同士で話し合うのと同じ感覚。同じ親として「子供の情報」は共有しておかないと、歩調を合わせて子供と向き合い、同じ目線で子供に関わっていくことが難しくなる。これと同じ原理である。
◇
そうして、職員室で「さっき、先生のクラスで授業をしてきたんですけど、こんなことがあって…」と担任の先生に報告すると、多くの場合は「教えてくれてありがとう!」と担任は好意的に応えてくれる。そして、続けて「実はね、…」と、気になる様子の原因になった出来事を話してくださったり、「そうか、実は私も、朝の会の時に気になっていたのよね…。後で本人と話してみるね」と言って下さったりする。
こうして、ちょっと気になっている時点で、気になるところを早めに手当していくのだ。これでサクッと終わってしまえば、それに越したことは無い。万が一、重大な問題が隠れていたとしても、早期に解決に向けて着手できるから、傷が浅いうちに治めることができる。
こんな感じで、生徒たちの様子について、先生たちは全然気づいていないようで、実は案外ちゃんと気づいていて、そっと陰から見守っているのだ。
◇
もちろん、私のクラスの生徒のことを、他の先生方から「ちょっと気になるんだけど…」と報告されたこともあった。その時は教えてもらえたことに心から感謝した。
ここも家庭と同じで、外での我が子の様子は、親にはさっぱり見えてこない。だから、第三者から「気になるところ」を教えてもらうことで、「そんなことがあったんだ」と初めて気づくことが結構あった。それで素早く手当てすることができて助かったことも多々ある。だから、気軽に教えてもらえることは本当にありがたかった。
◇
学校では「心配なこと」「気になること」だけでなく、「良いこと」もたくさん報告し合っていた。むしろ、こっちの方が機会としては多かったかもしれない。
日々の生徒たちの姿から見つけた「いいところ」。
それは教師目線で感じたことはなく、純粋に「一人の人間」として見た時、素直にすごいなぁ…と感心したこと、ふとした時に感じた優しさ、さりげなく発揮される思いやりの言動、堂々と発せられた正義感、誠実さ、頑張っている姿…等で素晴らしいなぁと感じたことである。
大人の私でも「これは大事なことだなぁ…」と感心して一目置いた生徒の姿や態度や言動を、授業や何かの活動中にふと見つけた時は、すぐにその日のうちに担任の先生に報告した。
「いいこと」を見つけて伝えた時の担任の先生は、ほぼ100%、表情が満面の笑みとなる。どんなに厳つい表情の強面の先生も、可愛らしい笑顔になってすごく喜ばれた。
なかには、「そうなんですか!あいつ、俺の前ではいきがって反抗ばかりしてるのに、先生の授業だとそんな良いことを言ってるんですかー!」とビックリされることもある。
でも、いつも突っ張っていた生徒の、いつもと違った新たな一面を教えてもらい、嫌がる先生などほぼいない。驚いた先生の表情がみるみる崩れて、「へー!あいつのこと見直しました!すげー良いヤツじゃないですか!嬉しいなぁー!」とニヤニヤ顔になる。とても嬉しそうだ。
おそらくこの後、この先生は、自分のクラスに戻って「終わりの会」の際に、「今日、こんな嬉しい話を聞いたから、みんなに報告するな!」と言い、私が伝えたことを生徒たちに話してくださるんだろう。
褒められて照れまくる生徒、周りの子たちも「わぁー」と歓声を上げて、みんな笑顔になる。「そうか、こんなことで褒めてもらえるんだ~」と、公に褒められたことで、社会が求める「人として大切なこと」に皆が気づいていく。
『社会的視点に立った時、何が良いことで、何をすると人からプラスに評価されるのか』
これは、自分が無意識にやったこと(言動)を、他者から「これ(ここ)が良かった」と言葉で評価されることでしか、わからないことだ。褒められて初めて、自分のこの行動が「社会的に価値があること」なんだと知り、気づき、自覚していくのである。
だから、プロの教育者は、「褒める」ということを、「価値づけ」という意味で意図的に行っている。
もちろん、私のクラスの生徒も、他の先生から「こんな面白いことがあったよ」「こんなに頑張っていたよ」と教えてもらった時は、その日のうちに、教室で「〇〇先生が、あなたのことをこんな風に褒めて下さっていたよ」と報告していた。
中学生にもなると、生徒たちは自分のクラスメートが評価されると、みんな自分のことのように素直に喜んでくれる。それがまた、褒められた生徒の自信につながる。更に、〇〇先生と生徒たちの心の絆や信頼関係が今よりもっと深まっていく。
こういう時の、クラスのあの明るくて温かい雰囲気が、私は大好きだった。
◇
関係性とは、こうしてコツコツ築き上げていくものだ。
そして、人はこうして育っていく。
これは、学校現場だけのことではなく、家庭や職場、地域社会でも大切なことであり、老若男女問わず全ての人にとっても大事なことだと思う。