いくつになっても花は咲く~塔本シスコ展『シスコ・パラダイス』を観て~
あれはいつだったか、先月の終わり頃だろうか。
ふと目にしたSNSの広告の絵。
そこには色鮮やかな植物と自然の生き物たちがいた。黄色と緑と様々な色。一見、南国の風景かと思うほど個性的な色彩の作品の横に、「塔本シスコ」というお名前があった。
塔本シスコさん?
名がカタカナ、もしかしたら外国籍の方かしら?
それとも海外にお住いの芸術家かな?
明るい色調と大胆な構図から、まだ若い先鋭のアーティストかなと思っていたら、全然違っていた。
彼女は、1913年(大正2年)生まれの熊本県出身の日本人女性で、2005年(平成17年)にお亡くなりになられていた。享年92歳。
そして驚くことに、彼女は53歳から絵を描き始めたという。
上のサイトは、シスコさんのお孫さん福迫弥麻さんのインタビュー記事である。これを読み、塔本シスコさんの人生を知り、また、(東京の世田谷美術館を皮切りに)シスコさんの巡回展が催されることを知った。
そして、現在。
シスコさんの巡回展は、ただいま岐阜県で開催中という。
記事の情報から、私は、彼女の生き方と人なりに関心を持ち、彼女が描いた絵に興味を持った。そして何より、彼女が絵を描き始めたのが、今の私の年齢であったことが、私の心に深く刺さった。
「これを観ないと一生後悔する」…そんな気持ちに駆られて、私は岐阜市へと向かった。
◇
6月半ばの火曜日。
梅雨空の下、高速バスを降りると、濃尾平野特有の蒸し蒸しした空気がうわっと私の身体を覆った。
それまで持ちこたえてくれていた空が、ぽろぽろと雨をこぼし始める。
私は路線バスに乗り、岐阜県美術館を目指した。
いくつかのバス停を通り過ぎ、ようやく「岐阜県美術館前」に辿りついた。
ブザーを押してバスを降りる。この時、私と一緒に、数人の女性たちがこのバス停で下りていった。
みんなバスから出て早々、慌てて傘をさし、同じ方向へと歩いて行く。
もちろん私も…。みんな、シスコさんの絵を見に来たのだ。
建物の入口に立ち、傘を折りたたむ。
施設の中に入ると、『塔本シスコ展・シスコ・パラダイス』の大きなパネルが掲示されていた。
美術館に入ってすぐ、目立つところにチケット売り場が開設されていた。
木枠で仕切られた明るいスペース。
そこで入場料を支払い、チケットを手に取って、展示会場へと入った。
◇
入って早々、絵画から発せられるエネルギーに圧倒された。
SNSの広告やインタビュー記事に掲載されていた絵の画像だけでは、到底、彼女の作品から沸き立つ生々しい熱は伝わってこない。
やはり「百聞は一見に如かず」というけど、確かにその通りだ。
実際にこうして作品を見るまでは、「素人っぽさが残っている作品なんじゃないか」と、大変失礼なことを思っていたが、いやいや、とんでもなかった。
彼女は、初めて絵筆を持った瞬間から、また、初めて油絵を描いた瞬間から、もうすでに「本物の画家」だった。
こうして絵を描き始めたシスコさんは、息子の賢一さん夫婦と同居するため、熊本県から大阪府枚方市の団地へと引っ越した。それが1972年、シスコさん59歳の時である。この頃に、お孫さんの弥麻さんが誕生している。弥麻さんは、同居の祖母・シスコさんの絵を描く姿を、ずっと近くで見つめてきた。
大胆な構図と鮮やかな色彩。それはキャンバスだけでなく、目の前の全てのものにも施されていく。
彼女の作品を見ていると、どこからも「シスコさん」を感じる。彼女の体温や彼女の存在を強烈に感じるのだ。亡くなられてもう17年が経つのに、今も彼女の生きる力が作品から溢れていた。
人は、自分の感情を表現するのに「言葉」を用いるけど、彼女にとっての表現ツールは「絵を描く」だったかもしれない。楽しかったこと、嬉しかったこと、子供時代の思い出、今の自分…等々、体験したことを全てキャンバスの中に盛り込んで、不思議なシスコワールドを展開させていく。
家族がいて、懐かしい思い出の人々がいて、新しく出会った人もいて、愛猫がいて、訪れた場所があり、好きな植物や昆虫もいる。彼女がこの世に生きてきたこと全てが、彼女の絵の題材になっていた。
彼女の作品で、私が「これは脂がのっていて、味のあるいい作品だなぁ」と感じるのは、だいたい80代の頃に制作されたものだった。
私の周囲で80代といえば、家庭内でも社会でも第一線から退き、誰かの世話になって介護を受けている人が多い。
ところが、シスコさんの場合は、80歳を過ぎてもますます創作意欲が増し、素晴らしい作品を多数残している。そこで驚くのが、かなり大きな作品にも着手されていることだ。
これ一枚を描き上げるのに、若い人であっても、かなりのエネルギーと時間と労力が必要だろう。ところが、彼女の場合は、そんな苦労よりも「創作の楽しみ」に深く心が傾いていた。彼女にとって「絵を描く」ことは、生きる意義であり、命の根幹であり、「生きる喜び」そのものだったのだろう。
これらの絵を観ながら、私は自分で自分を「小さな箱」の中に閉じ込めてきたことに気づいた。
女だから…。
嫁だから、母だから…。
もう若くはないのだから…。云々。
そういって、やらない言い訳をたくさん作って、自分を小さな箱の中に閉じ込め、「この中でおとなしく生きよ」と、自分を抑え込んできたのだ。
ところが、シスコさんの「枠にとらわれない、型にもまらない、己の魂が欲するままに自由に描いた絵」にたくさん触れていくうちに、自分を閉じ込めてきた「小さな箱」はもう要らないと感じた。
「箱」は手放そう。
そして、もっと自由に自分らしく生きよう…と思った。
晩年が近づくにしたがって、シスコさんは不思議な世界を描いていく。
そして最後は、「月」。
情熱に突き動かされて描き始めたシスコさんの絵画人生は、最期は研ぎ澄まされた「月」で静かに締めくくられた。
◇
シスコさん。
あなたが遺した絵から、私はたくさんの勇気と元気をもらいました。
ありがとうこざいます。
私も、最期まで情熱を失わず生きたい。
そう強く想い、私は会場の出口の扉を開いた。
ここから先は、私もあなたのように明るさを失わず、未来に希望を持って、自由に力強く生きていきます。
そう、誓いつつ。