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【写真日記】飛騨街道金山宿にて筋骨を歩く③ 筋骨と昭和と清流が交錯する町

今回は、飛騨金山の「筋骨めぐり」第三話です。

鎮守山を下りた後、いよいよディープな筋骨の世界へと入っていきます。

(前回までのお話はこちら↓。)

各家のプライベートエリアに食い込むように通っている「筋骨」

鎮守山の山裾にも「筋骨」(細い路地)が走っていました。

こちらの筋骨もかなり細くて狭いです。

ガイドさんがいないと「えっ?ここ、入っちゃっていいんですか?」と心配になるくらいの細い道です。筋骨にギリギリ接して建てられているお宅の窓が全開になっていたり、勝手口が開いていたり…等々。更に、筋骨沿いのちょっとした庭で洗濯物がオープンに干してあったりもします。

プライバシーもへったくれもありません。目のやり場に困っちゃう!という状況…(汗)。

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でも、昔、私が子供だった頃(昭和40年代)はこんな風情が、町のあちこちに残っていたなぁ…と思い出しました。

昔の日本は、今みたいにプライベートもプライバシーも…何もなかった大雑把な時代でしたよね。そして、みんな今ほど神経質でもなく、他者と自分の間の境界線もあいまいだったし、でも、なんだかんだ折り合いをつけて、みんなオープンで適当だったなぁ…と。

そんな昭和時代の思い出の風景と、今歩いている「筋骨」の町は、どこか似ているなぁと感じました。

こうして歩いている、その時も…。

開いている窓からテレビの音が流れていたり、ボソボソと人の話し声が聞こえてきたり、台所の勝手口からカチャカチャと食器の音がしたり、ごはんのおかずの匂いが漂ってきたり、ちよっとした空き地に家族全員分の下着がひらひらと干してあったり、猫の額ほどの小さな畑に野菜が植わっていたり…等々。

家の奥深くへ潜入しないと絶対に味わえない「各家庭のプライベートな空気感」が、筋骨という細い通路の上をフワフワと漂っているんですよね。

それも濃く、強く、穏やかに…。

すっかり忘れていた昔の感覚が、徐々によみがえってきました。

かつて私たちは、人の気配がプンプンとする場所で、いつも誰かの生活の音や匂いや体温を感じながら、汗と涙にまみれて暮らしてきたんですよね。

もうすっかり忘れてしまっていた昭和の感覚が、この筋骨の町を歩くことで強烈に戻ってきました。

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筋骨を歩いていると、至る所で水路に出会います。

ここは水が豊富で、この水路の脇からも水が湧き出ていました。水路に階段が付いているから、ここで土の付いた野菜を洗ったりしていたんでしょうね。

そういえば共同の井戸も、筋骨の端の所々にありましたが、こうした水場も人が集い交流する大切な場所だったのです。

更に細い筋骨へと入っていきます。

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昭和の風情を残している銭湯

建物の軒下を通る筋骨を進むと、その先に古い銭湯がありました。

下の写真の建物。大正時代に建てられたそうです。

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ガイドさんの案内で、中に入れていただきました。

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この銭湯は、昭和63年(1988年)まで営業していたそうです。時代の変化と共に廃業。今は、こうして「筋骨めぐり」の見学スポットになっています。

脱衣所のロッカーは木製。昔はこんなスタイルだったんですね。

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浴室と脱衣所の間のガラス。大正時代のものだそうです。壁面や洗い場のタイルも素敵です。

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浴室と浴槽。私たちの感覚からいくと、かなり狭く小さく感じられました。

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浴槽の底のタイル。ブルーの模様がとても美しいです。明治時代に作られたものだそうです。

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電灯をつけるとこんな感じです。

昔、この場所は、一日の疲れを落としにやって来たお客さんで賑わい、人々の声が大きく響いて活気に満ちていたのでしょうね。

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天井の扇風機。スイッチを入れたら、しっかり動いてくれました。

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木箱に書かれた「ちり箱」の墨字。昔のごみ箱です。歴史を感じますね。

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こちらが番頭台。

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演出かな?台の上に、空の牛乳瓶と石鹸箱が置かれていました。

水路の脇を通る筋骨

昔風情の銭湯を出た後、また更に歩きます。

なんと!水路の上に家が…。水路の上の家と、左側の黒っぽい家の間にある細い道も、実は「筋骨」なんですよね。

水路の方へと降りてみました。

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さっきまでいた私たちが立っていた小橋の下を、筋骨が通っています。

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そして、この水路に面して、小さな水場が作られてありました。

上流側の堰(せき)を開けると、湧水がどんどん新しく出てきて、古い水は水路へ落ちていく…というシステム。ここは共同の水場で、昔は、新しい水が出る上流の方を飲み水用、中間を食器や野菜を洗うための専用水に使い、水路側の下流の方の水は洗濯用にしていたそうです。

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先ほどの水路上の家の真下を通ります。

ここもガイドさんがいないと、ちょっと遠慮して入りづらかったかも…(汗)。どう見ても、「他人の敷地」みたいですもんね。

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トンネルのような場所を抜けると、そこにも水場がありました。

下の写真の右側が「水場」です。今も滔々と水が出てきます。

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不思議な形の古い建物たち

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表通りの街道沿いは、家の佇まいがきちんとしていますが、ここ(裏側)はカオス状態。元ある建物に、後から継ぎ足し継ぎ足し…で部屋が増築され、複雑な構造となっています。まさに「生活がむき出しになっている」感。

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今だと建築法に引っかかる構造ですが、昭和のドサクサ期には、こういう建て方もありだったんですね…。

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下から見上げると、なかなか迫力があります。まさに「ハウルの動く城」。

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水路沿いのこの細道も「筋骨」です。右側は家庭菜園になっていました。

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ここ金山町は、同じ飛騨でも南部のため、昔から雪があまり降らない地域なんです。だから、こんな華奢な構造の建物でも、風雪でつぶれたり劣化することもなく、今に残っているのでしょうね。

また、細い筋骨の中へと入っていきます。

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飛騨街道に出てきました

家の軒下にある細い筋骨を上り、また飛騨街道に出てきました。

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かつてはこの道は人の往来で栄えたそうですが、今はひっそりしています。でも、この家の並びから、どことなく当時の名残が残っています…。

この街道を歩いていたら、なんと!先週私が訪れた飛騨金山の巨石群に関連する施設「金山巨石群のリサーチセンター&ギャラリー」がありました。

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施設の中に入って、巨石群の写真を見せていただき、巨石群にまつわる興味深いお話を聞かせていただきました。

更に飛騨街道を歩きます。

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途中、右手に、古い木造の三階建ての建物が見えてきました。

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こちらは明治初期に建てられた「清水楼」という料理屋さん。やはり時代の流れで、この料理屋さんも廃業されたそうです。

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この清水楼の横にも筋骨が走っていました。そちらに入ると、かつて清水楼さんが使っていた水場が残っていました。

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こちらの清水は今も近隣の人たちが使われているそうです。

一番上流の水(神様の祠の下の槽)は飲用できるとのこと。そこで一口飲ませていただきました。水を口に含むと、まろやかでほのかに甘い感じがしました。この水でお茶を点てると美味しいそうですよ。

更に歩きます。

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馬瀬川と飛騨川の合流地点と境橋

こうして入り組んだ筋骨を歩き続けていると、ポンと見晴らしの良い所に出てきました。

ここは飛騨川と馬瀬川の合流地点。

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写真真ん中の緑の草が生えている所は三角デルタ。(流石がたくさん溜まっているため、ちょっとわかりにくいかもしれませんが)、奥の川が飛騨川、手前の清流が馬瀬川です。

そして、なんと!この地点は漫画「釣りキチ三平」にも登場したそうですよ~。(下のガイドさんが持っている画がそれ)

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矢口高雄先生も、この場所に立たれたのかしら…。

今は川釣りのシーズン。川に入って釣り糸を垂らしている人を何人か見かけました。

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馬瀬川沿いを川上に向かって歩きます…。

この川が飛騨と美濃の境目

先ほどの三角デルタから少し川上に向かって歩くと、鉄筋でできた丈夫そうな橋が見えてきました。「境橋」です。

「飛騨国」と「美濃国」の境界線にあたる橋なので、「境橋(さかいばし」」と名付けられました。

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(うまく撮れていなかったため、金山町観光協会のサイトの境橋の画像をお借りしました)

橋を渡り切ったところで、すぐ正面に見えてきたのは、こちらの祠。

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子守地蔵尊の社でした。

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何の変哲もない普通の社に見えますが、実はこの祠の周辺は、ものすごいスポットだったんです。

飛騨と美濃の境にある「境橋」の周辺のすごいこと三選

①伊能忠敬がここから計測

まず一つ目。社の手前にあるマンホールに注目。

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なんと!ここは、(江戸時代に)伊能忠敬が飛騨で初めて計測をしたという「飛騨計測はじめ点」だったのです。

幕府に依頼されて正確な日本地図を作製することになった伊能忠敬は、この飛騨国も測量しました。彼はここを出発点にして、飛騨から北陸の方へと計測を進めていったそうです。

伊能忠敬は、17年かけて日本全土を測量したそうですが、その旅の途中で飛騨金山を訪れ、この地点から飛騨の計測を始めました。写真のマンホールの上に立ちながら、「今からウン百年前に、この場所に伊能忠敬さんも立たれたのね~」と思うと、胸にジンと来ますね…。なんとも感慨深いでものがあります。

②運気を上げてくれる尊い木

次に二つ目。子安地蔵の横にある大きな欅(けやき)の木に注目。

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「運気を上げる欅」。どうでしょう?パワーを感じますか?

この欅の木は、大きな岩の上に立っている木で、岩場に根を張って大きく育ったところから、何か不思議な力があるのではないか…と考えられ、「パワースポットの木」と呼ばれるようになりました。木からパワーを受け取ろうと、他県からも多くの人がここを訪れているそうです。

私たちもタッチ✨しっかりエネルギーをチャージ!

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どうか運気が上がりますように…🤑✨(←欲深くてすみません😅)

➂司馬遼太郎が渡った橋

そして三つ目。さっき渡ったばかりの「境橋」は、なんと!司馬遼太郎の「街道をゆく・飛騨紀行」に出てくる橋なのです。

(『飛騨紀行』の「飛騨境橋」の段より、以下抜粋)

「中山七里(なかやましちり)は見られませんね」というと、川尻さんはそのあたりではもう夜ですな、といった。中山七里は、飛水峡以上の渓谷美として知られている。崖も水中の岩もほとんど白い石英斑岩ということもあって、景観に気品がある。

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この名は、飛騨金山町の境橋から上流の下呂(げろ)まで七里のあいだ渓流がつづくことから出た名で、江戸期、景勝を賞美する、いわば観光用としてつけられた名ではなく、七里のあいだ、旅びとは岩を飛び、崖をつたわねばならないということから、おこった。美濃から飛騨へは、大変な旅だったのである。

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境橋付近は、釜の底のような地形だった。その左側の山を削って、国道41号線が棚のように造形されている。右は、渓流が北から流れ、その流れに境橋がかかっている。対岸も、大きな山壁である。山壁の上下に、点々と明かりが見える。夜だから、それしか見えない。国道を横断して、境橋のたもとに寄ってみた。いかにも建設省の規格品のような橋で、鉄とコンクリートの味気ないものだった。 (中略)  私どもは車にもどった。川尻さんがクラッチをつないだとき、対岸への橋がーーー境橋がーーー背後になった。すでに飛騨に入ったのである。  「街道を行く・飛騨紀行」司馬遼太郎より 

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(境橋から国道41号線方面を眺める。境橋の周囲はこんな地形です。写真の右岸側が飛騨、左岸側が美濃です)

ちなみに、境橋が、司馬遼太郎の本に書かれていたことは、ガイドさんの説明にはなく、後で私が気づいたんですよね~。

以前、読んだ本にそういえばあったぞ…と思い返し、帰宅後、所蔵の本を開いて調べてみたら、確かに「境橋」がありました。

私たちが歩いた境橋の周りを司馬遼太郎も歩き、そして渡ったのか…と思うと、やはり感慨深いものがあります。

彼が「街道をゆく」の取材で飛騨金山を通過したのは11月5日。この時の境橋は秋の空気に包まれて、また違った風情を醸し出していたことでしょう。

境橋の真ん中から金山橋方面(三角デルタの方)を眺めると、川釣りを楽しむ人の姿が見えました。

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ゴールイン・まとめ

この後、造り酒屋の奥飛騨酒造さんに寄り、お土産に地酒を買って、出発地点のドライブイン飛山を目指します。

そして…。

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ゴールイン~!無事に完歩しました~!

約2時間のまちめぐり。飛騨金山の筋骨めぐり。

とてもディープで充実したブラ散歩でした。とても楽しかったです✨

最後に一言

はじめて「筋骨めぐり」をされるなら、ガイドを申し込まれることを強くお勧めします。ガイドさんも「ここに長く住んできた地元の者でも、初めて入る筋骨は、どこに出るのかさっぱり分からなくて、道に迷ってしまうんですよ。それくらい入り込んで複雑なんです」と仰っていました。

それに、ガイドさんの説明と案内が無ければ、知らずに通り過ぎた所や躊躇して入れなかったであろうスポットがいっぱいありました。

是非、筋骨めぐりにチャレンジされる際は、ガイドさんと一緒に金山の町を歩いてみてください。面白い発見がたくさんあると思います😉。

(完)


◇◇◇

「筋骨めぐり」体験レポ・ダイジェスト版はこちら。



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