脚のない男と、傷頭の男
カトマンズの喧騒の中、一瞬の静寂が訪れた。
それは、物乞いとバックパッカーの間で交わされた、ほんの些細な行為だった。渋滞に巻き込まれたタクシーの中から、私はその光景を目撃した。
この瞬間が、私の物乞いに対する見方を永遠に変えることになるとは、そのときはまだ知る由もなかった。
途上国はもちろん、先進国も含め、街歩きで避けられないことの一つに物乞いとの遭遇が挙げられる。
海外を旅したことがある者なら皆、みすぼらしい格好をした老人や、乳飲み子を抱いた母親、下半身の欠落した不具者などが疲れきった顔で嘆願しているのを目にしたことがあるだろう。
もしかすると、あまりにも日常的なために、意識すらしなくなっていることも珍しくないのかもしれない。
存在することと、存在を意識することの間にはいつも大きな隔たりがあるものだ。
物乞いへの反応は様々だ。「可哀想」「働け」「話しかけないでほしい」
しかし多くの人の最終的な結論は「彼らにお金を恵んだところで、さらに物乞い行為を助長するため、自分は関与しない」というものだろう。
世界一周の旅の間、何度その意見を耳にしただろう。
かくいう私も明確な答えを持っていたわけではないものの、なにか釈然としない思いを抱いていた。
ネパールの田舎町ポカラから首都カトマンズへ戻ったある日のこと。
宿へと向かうタクシーの車内で私は珍しくセンチメンタルな気持ちになっていた。
1年に及ぶ世界一周の第1章が終わろうとしていた。窓からは雑然としたカトマンズの景色が流れてゆく。旅の思い出が走馬灯のように脳裏をめぐっていた。
中心地のタメル地区にほど近い、とある道が渋滞しており、しばらく車が動かなかったため、ふと歩道を眺めるとそこには二人の男性が向き合い立っていた。
正確に記そう。
1人の欧米人と1人の物乞いであった。
坊主頭で髭面のバックパッカーと、スケートボードに乗った物乞い。
後者は腰から下が文字通り「存在しない」男だった。移動のためにはスケートボードが必要なのだ。
なんの気なしに彼らを見ていた。
バックパッカーの男はポケットからクシャクシャになった紙幣を取り出した。色から推測して5ルピーか20ルピー程度、つまり日本円にして5円か20円を脚のない男に渡してさり気なく去っていったのだった。
下半身のない物乞いは、立ち去る彼が振り返ることもないことを知りながら頭を道路に擦り付けるようにお辞儀をしていた。姿が見えなくなってもなお、何度もバックパッカーの彼に目線を送っていた。
バックパッカーの男の坊主頭には、一目で手術痕とわかる大きな傷跡があった。
その傷跡は、彼自身も何らかの苦難を経験したことを物語っていた。
彼の行動は単なる同情からではなく、共感に基づいたものだったのかもしれない。人生の脆さを知る者同士の、言葉なき連帯感のようなものを、私はそこに感じた。
私たちは皆、何らかの形で傷を負いながら生きている。
その傷が目に見えるものであれ、心の中に隠されているものであれ、互いの痛みを理解し、寄り添うことこそが、真の思いやりの始まりなのではないだろうか。
誰もが普段なら通り過ぎてしまうであろう世界の日常のひとコマであったが、私にはどんな書物よりも大きなものを教えてくれた。
渋滞で動けなくなったタクシーの中からボンヤリと外を眺めていただけなのに、いくつもの国を渡り歩くよりも偉大なことを学んだのだった。
センチメンタルな気持ちが拍車をかけたことは否定しないが涙がとめどなく溢れるのを感じた。
この気持ちをいつかの自分がどうか忘れないようにと願った。
この世の中には、人の数だけ考え方があるのだろう。そのどれをも否定はしないが、私はこの先のいく先ざきで物乞いに出会ったらきっと立ち止まるだろう。
一度通り過ぎても、思い返したように踵を返すだろう。
富は偏重し続け、貧しさは連鎖する。
きっとそれは避けられないかもしれない。
しかし、私は苦しむ人たちと向き合うことから逃げたくないと思う。
それがエゴかを考える前に、目の前の人を助けることにしよう。
できる範囲で寄付をしよう。
自分の周りの人々と、貧困問題について話し合おう。
たとえそれがどれほど小さなものであっても、無関心でいるよりもずっと価値がある。
一人一人が自分にできることから始めれば、きっと世界は少しずつ、でも確実に変わっていくはずだと私は思う。