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「103万円の壁」が教えてくれる人間の損得心理

「103万円の壁」とは何か?

先日の衆議院選挙で大幅に議席を伸ばした国民民主党の代表として俄かに注目を集める玉木雄一郎氏。「手取りを増やす」というキャッチーでわかりやすい主張が主にネットリテラシーが高い若年層の熱狂的支持を受け、急に台頭してきたという印象を持つ方も多いだろう。

しかし、私個人は国民民主党の結成当初より玉木氏のツイッターをフォローし、彼の出演するyoutubeなどのネットメディアも比較的多く視聴していたため、ようやく日の目を見たかと感慨深いものがある。

ところで、最近とみに耳にする「103万円の壁」撤廃についてあくまで精神科医の視点で話してみたい。

前提として、国民民主党が提案するこの政策は、基礎控除と給与所得控除を合わせた課税最低限を、現在の103万円から178万円まで引き上げようというものだ。


同じ政策なのに、見方で印象が変わる不思議

報道各社はこの政策について、様々な切り口で伝えている。

あるメディアは「給与所得者の手取りが増える!178万円まで非課税に」と報じる一方、別のメディアは「年収800万円の世帯で22.8万円の減税」と報じた。

同じ政策なのに、なぜかニュースを見る度に印象が変わるとは思わないだろうか。まるで万華鏡のように、見る角度によって異なる形が見えてくる。

具体的な数字で見てみると

この政策が実現すると、どうなるだろう。
例を挙げると、パート収入が200万円の山田さんは年間8万円以上の減税効果を受けられる。正社員として働く年収500万円の佐藤さんは13万円程度、システムエンジニアとして働く年収800万円の鈴木さんは22.8万円の減税効果を得られる。

しかし、この話を聞いた山田さんは眉をひそめるかもしれない。
結局、お金持ちばかりが得をする政策じゃないの?」と。

22万円という数字が頭から離れず、自分の8万円という減税額が急に小さく感じられてきたのだ。

なぜ人は大きな数字に惑わされるのか

私たちの脳は、より大きい数字に強く影響される性質がある。デパートのセールで「70%オフ」という大きな文字を見た後では、「30%オフ」のコーナーが急に魅力的でなくなってしまうように。

この場合も、22万円という数字が私たちの判断の基準点となり、8万円が(自分が損をしたわけでもないのに)「少ない」と感じられてしまうのだ。

さらに、人間の脳には「単純に考えたがる」という特徴もある。

「収入が多い人ほど、得をする金額も多くなるはず」という単純な考えが先に立ち、実際の税率の仕組みや手取りの割合といった複雑な計算は後回しになってしまう。

実は低所得者層の方が得をする?

実は、国民民主党の訴える政策が実現した場合、現在の手取りに対する増加率で見ると、低所得者層の方が大きな恩恵を受ける

年収200万円の場合は手取りが4.5%増える一方、年収800万円の場合は3.2%の増加にとどまるのだ。これは、所得税が累進課税制度を採用しているため、収入が増えるほど税率も上がっていくからである。

また、年収800万円以上の人たちは減税額は22.8万円で一定額となる仕組みだ。つまり頭打ちとなるため年収2000万円の場合、手取り増加率は1.3%にまで下がってしまう。

メディアの影響力

それでもなお、多くの人が「金持ち優遇だ」と感じてしまう背景には、メディアの影響も大きい。「高所得者の減税額22.8万円」という見出しは、その派手さゆえに私たちの記憶に強く残る。一方で、「低所得者層の手取り比率が最大4.3%増加」という情報は、どこか印象が薄い。

メディアの役割は「正しい認知を広げること」よりも「いかに多くの人の注意を集めるか」であり、多数派にとってインパクトの大きい見出しを作成することを優先する傾向があることは常に意識しておきたい。

日常生活に潜む比較の心理

この現象は、私たちの日常生活でもよく目にする光景に似ている。例えば、会社のボーナスで、自分は10万円増えたのに、隣の部署の人は30万円増えたと知ると、なんだか損した気分にならないだろうか。

「私だって働いてるのに、あの人ばかりずるい!」と、もらった10万円が急にケチくさく見えてくるのだ。

実際には去年より収入が増えていても、むしろ不満を感じてしまう。私たちの脳は、「現状からの変化」ではなく「他人との差」に敏感に反応するようにできているのだ。

あなたが100円をもらう代わりに、嫌いな相手が1000円をもらえるボタンがあったとしたら、あなたは喜んでそれを押すだろうか?それともなんだか悔しくて、押すのをやめてしまうだろうか。

私自身にも宿る「他人との比較で損得を感じる心理」

正直なところ、私自身このような心理的バイアスから完全に自由かと言われるとそんなことはなく、むしろ己の器の小ささにがっかりすることも多い。

身近な例で言えば、Voicyのランキングに一喜一憂してしまう自分に辟易することがある。はじめのうちはTOP10に入れるだけでも十分にありがたかったはずが、「あの新規のパーソナリティがやたら伸びてるな」と感じてしまうし、ランクダウンすれば焦る自分がいることに気が付く。

自身の放送のリスナーは変わらず温かく、熱心に聴いていてくれるにも関わらず、他者との比較でがっかりすることもある。

より良い社会への視点

大小あれど、私たちは常に隣の芝生は青く感じている。

結局のところ、その認識を持つことが大切なのだろう。他人と比較して損得を考えるのではなく、自分の状況が良くなることに目を向けない限り、いつも深い満足を得られないことを思い出す必要がある。

何かに不公平感を感じたり、誰かが羨ましくなった時には、数字の見方を変えてみるのも良い。例えば今回の政策については22.8万円という数字に囚われるのではなく、4.3%という改善率に注目してみる。一つの事象を、様々な角度から見つめ直してみる。

そうすることで、私たちは「得をした」「損をした」という単純な二元論を超えて、より冷静な判断ができるようになるのかもしれない。

そして、この視点の転換は単なる心の持ちようの問題ではない。社会政策を議論する上で極めて重要な意味を持つ。なぜなら、私たちが「他者が得をすること」に過度に反応してしまうと、結果として自分自身の利益までも損なってしまう可能性があるからだ。

精神科医として患者さんと接する中で、しばしば「他人との比較」に苦しむ方々に出会う。誰もがそうであると感じる一方でこのようにも感じる。

「他者の成功を喜び、共に育つ社会を作れないだろうか」と。

それは決して理想論ではない。むしろ、自分自身の幸せにつながる、極めて現実的な生き方であると私は思う、

103万円の壁の撤廃は、確かに誰もが等しく得をする政策ではないかもしれない。しかし、それは社会全体をより良くするための一歩となり得る。私たちに必要なのは、目の前の数字に惑わされることなく、その先にある可能性を見つめる力なのではないだろうか。

隣の芝生の青さを嘆くのではなく、自分の庭に水をやり続けること。そして時には、隣の庭の緑も自分の景色を豊かにしてくれることに気づくこと。それが、私たちの社会をより豊かにする第一歩なのかもしれない。

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