一人の参加者から見た「東京の生活史」プロジェクトの凄み
一人一人の人間に、生まれた場所があって、生きてきた時間があって、かなしみやたのしみがある。そういう当たり前のことを、私たちはいつも簡単に忘れてしまう。
先日紀伊國屋じんぶん大賞を受賞した「東京の生活史」。今をときめく岸政彦さんが指揮をとって、150人の聞き手が、150人の語り手に聞き取りをした、壮大な一冊だ。
去年の6月、その聞き手を公募すると知って、胸を高鳴らせたことをよく覚えている。それから、運良く聞き手として参加させていただけることになって、岸先生による数回の説明会や勉強会にて、聞き取りのレクチャーを受けることになった。
岸先生は、レクチャーのたびに、大体同じことを言う。
「生活史の語りは、どれも絶対にめちゃくちゃ面白い」
「私たちは、その人の人生の、ごく一部しか聞くことはできない」
「語り手を傷つける資格は誰にもない」
「調査は構造的に暴力。それを忘れてはいけない。でも調査がしたい」
そして、最後の締めの言葉もだいたい同じだ。
「まあ全部任せますから」
「何かあったら個別に聞いてください」
「しばにゃん(編集の柴山さん)にメールしてね」
東京の生活史プロジェクトでは、聞き取りにも原稿にも、細かい規定が全然なかった。多くの聞き手は戸惑い、心配になったにちがいない。え…?150人もいるのに、これだけ自由にやらせていいんですか…?本当に個別に聞いてもいいの…?岸先生と、柴山さんの体力はいったいどうなっているのか…?
しかし、原稿は本当に「全部任せられた」し、「何かあったら個別に聞いて」という姿勢も貫かれた。私はあくまで150分の1なので、少なくとも私からはそう見えた。毎月、オンラインで「相談会」が設けられ、聞き手はどんな些細なことでも相談できたし、直接原稿を映してアドバイスを受けることもできた。そこで岸先生はよく「この前、個別にこういう相談が来て…」という話もしていたので、たくさんの相談に対応されていたことと思う。
そして、本の完成後には、岸先生と柴山さんと、個別で本を受け取ってお話しする機会まで設けられた。この一年を通して、常に忙しくてお疲れのはずの岸先生は、常に笑いながら喋りまくっており、こちらに恐縮する暇すら与えず、「いやー、本当にありがとう」を繰り返していた。
岸先生も柴山さんも、「語り手を尊重してください」と言いつづけながら、私たち聞き手を一人の人間として尊重しつづけてくれた。このプロジェクトに参加しているあいだ、ずっとそのことに圧倒されていたような気がする。
たとえ、もっと管理しやすいようにルールで縛っても、多くの聞き手は黙って従っただろう。私のような素人も含めた150人が、それぞれインタビューを行うという性質上、トラブル防止のために細かいルールをたくさん敷いたとしても、なんら不思議ではない。しかも、聞き手として参加している人は、岸先生を慕っている人たちが多いはずだ。ちょっと威張っても、俺の言うこと黙って聞けよお前ら、というスタンスでも、黙って聞いたと思う。
でも、繰り返されたのは、ルールではなくて、基本原則だった。「とにかく語り手を尊重してください」「語り手が削ってほしいといった部分は、粘らないで絶対に削ってください」「あとはみなさんにお任せします」。だから聞き手は、自分で考えて、自分で聞き取りをした。
私は、出版業界のことを全然知らないけれど、世の中の本は、こうやって作られているんだろうか。取材対象に丁寧に対応することが求められる現場で、取材をする側の人間も、ちゃんと丁寧にあつかわれているんだろうか。あるいは、他の業界でも、誰かをケアするための現場では、ケアをする側の人間も、ちゃんと守られているんだろうか。
そんな、当たり前のようでとても難しいことを、岸先生も柴山さんも当然のような顔でこなしていた。その姿を見て、同じく生活史の調査をされている上間陽子さんの「裸足で逃げる」や「海をあげる」を読んだときの感覚を思い出した。これまでずっと、「他人を尊重できる人は、自分自身の気持ちを抑えて我慢できる人」というイメージが抜けなかったのだけれど、これからは、自分の気持ちをちゃんと見つめる人が、他人の気持ちも尊重できる人になる、そんな時代がやってくるのかもしれないと思ったのだ。
(ちなみに余談として、東京の生活史プロジェクトに参加しているあいだに、この二冊の編集を担当されたのも柴山さんだと知り、友人に「あなたは岸先生ファンじゃなくてしばにゃんファン」と判定された。確かに、私は友人とちがって、岸先生の弾き語りライブには行っていないし、このまえ数年ぶりに読んだ「永続敗戦論」の最後に柴山さんの名前が出てきて、ひえー、となった)
この一年、私が東京の生活史プロジェクトに割いた時間は、そこまで多かったわけではない。それでも、このプロジェクトに参加していることが、自分の気持ちを健やかにしてくれる一つの要素だった気がする。もちろん、このプロジェクトは、聞き手のためでも、語り手のためでもなく、語りを本にまとめて形にするためのものだったとわかっているのだけれども。
私たちは、一人ひとりが、他の人とは替えられない人間で、誰もその人のすべてを知りえないということを、すぐ忘れてしまう。だから、いろんな手を使って、そのことを思い出す。この東京の生活史も、手に取るたびに、私たちにそのことを知らせてくれるんだろう。なんというか、「誰もがかけがえのない人間で素晴らしい!」というよりは、「誰もがただ一人の人間だということを目撃したい、たしかめたい」という、そんな気持ちにフィットする本だと思っている。
しかし、これだけ熱い気持ちを連ねておいて、まだ半分も読み終えていないので、やはり全部に目を通した岸先生と柴山さんはすごい。本当にありがとうございました。