ハタチ、ユトリ、ets...


タスクに追われ生に対して希望をなくす。空いている時間はたくさんあるはずなのにタスクを消化できない病気なのかもしれない。贅沢病?自分の人生に価値を見出せない。他人も頼ることができない(その人にはその人の人生がある)。自立していないガキの戯言かもしれないが、ガキからしたらその問題は人類存続の危機に等しく大きな問題である。

世間では大人たちが責任の押し付け合いをする。誰も責任を取ろうとしない(そりゃあそんなもんとりたくない)。だから、何か起きる前に責任の所在を明確にしたがる。そして、その責任を負いたくないが為に奇妙なリスク管理をする(ものすごく賢明な判断)。クレームが入らないようにお客様に対しては平謝り。校内のいじめを見て見ぬふりしていないという証拠のためのアンケート。形式上というより形式でしかない中身が空っぽな缶詰のような虚しい決まり事セオリー慣習。20歳を超えてから、歳をとる楽しみは薄れ虚しさばかり山積する。なんて社会は虚しいんだろう。しかし、そうやってある集団を見下している自分という存在がもっと矮小なものだと気づく。お前は矢面に立つことなくただただ他者や体制を批判しているだけじゃないか。何もできないくせに。本当にそうである。僕は現在大学に通い暇を持て余し社会や他者に何も還元できていないし、ただただ親の脛を齧り生活をしているにすぎないなんの生産性もない屑だ。そんなお前に社会の何がわかるんだ。小中高と一般的な教育を施され、時に教師に抗いながら基本的に真面目に生きてきた中途半端に調教された僕は内部で自己が分裂するのを感じる。社会的ルールは守らないといけないと思う一方でなぜ彼らの言う通りにしなければいけないのかという想いもある。どちらが優位であるかは時と場合による。ものすごく中途半端である。もっとも忌むべき対象は中途半端な自分自身なのかもしれない。もっと割り切れたら楽なのに。どちらかによることを嫌がる自分がいる。まるで、お前はどちらの味方なのかと言わんばかりである。八方美人は疎まれる。

小中高生とはまた違ったゲームがその先にはある。ゲームのルールはもっと厳しいし、年々、ルールの中で飼い殺され、自分自身の表現方法も陳腐で凡庸で退屈なものになる。人生の意味であったり自分の存在意義の発見のような大義名分はどうでもいいというかそれ以前の問題。その日、タスクを消化しきり次の日まで食い繋ぐということ自体この身に余る。生きるということさえどうでもいいことのように感じる。では、どうすれば現状を瓦解できるか、ガキの小さい脳みそで考えてみる。とりあえず、タスクを効率的に消化して行くこと(この短い文の表すことがどれだけ大変か)しかない。その先のフェーズに行かないと詳しいことは分からない。ただ生きることって凄く難しい。

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