まつりのあと
遠くの方で花火の音がしていた。
昔は地を這ってでも行きたかった祭りが、今は本当に遠い。窓を開けるとおそらく遅れてこちらに届いているであろう花火がひらく音が聞こえてきて、それだけで世間から疎外されているような気分になった。
やはり行けばよかったなと思いつつ、駅前でぎゅうぎゅうに詰められ帰宅難民になっている人々の動画をSNS越しに眺めていると今綺麗な状態で干したばかりのシーツに寝っ転がっていることがどんなに幸せかを実感する。
私は平常時のこの場所をよく知っている。会場は自宅からも近いため、祝日によく訪れる場所だ。混雑とは程遠くリラックスできる場所だった。
一方新潟湯沢では大規模な音楽フェスが開催されていて、最後まで申し込みを躊躇っていた二日目は見事大成功を収めたようだった。
好きなバンドが動画を載せていてやはり行けばよかったと思いつつ炎天下の湯沢でこちらもすし詰めにされている観客を例によってSNSで見ていると、頭の中でどこからか救急車のサイレンが聞こえてきてため息が出てしまう。
それに私は平常時のこの場所を知っている。出張でよく訪れていた場所で夏は観光客がおらずガラガラだった。
なんだかそんな場所に人が集まっていることが滑稽に思えてきて「まぁ俺はいつも行ってたけどね」と謎の優越感で行かない理由を見つけていた。しかし人が集まるのは単純にそこで祭りが開催されるからであって、その理由、優越感は確実に破綻している。
そうしてダラダラとスマホを眺めていると、SNSで自分の思っていることや現状をあっけらかんと報告できる人は本当に凄いと感じた。これは決して揶揄ではなく、むしろ自分に対する卑下である。
「みんな祭り行ってて羨ましい」「絶対に近々転職します」「私事ですが結婚しました」
ナメられたくないな、上手くいかなかったら格好悪いなと私だったら不安になってしまう言葉がスクロールされ次々と目の前を横切る。
そんな責任を孕んだ言葉を、誰がどんな眼で見ているかも分からない場所に放り込むことが怖いと感じることはないのだろうか。
その言葉をどう捉えるかは、すべて当人以外に任せられているインターネットは娯楽と同時にそれ以上の恐怖を感じることがある。
覚悟や自信が無いとこのようになるのだろうか。
一歩引いてすべて冗談として向き合うことをモットーにこの歳まで生きてきたが、花火を見て歓声を聞いているとやはり行きたくなるからクソ。結局しっかりSNSの魔力に脳がやられている。
この歳まで生きてきたといえば、今の自分は数々のロックスターやアーティストが亡くなっている呪われた歳だが、どういうわけか私はまだ生きているし、そもそもロックスターにすらなっていない。
先週隣に座る上司が飲んでいたコーラを局部あたりに溢してしまった時すかさず「これが本当の股間(コカ)・コーラですね」と茶々を入れ椅子から転げ落ちるほど笑わせたことがあった。
それでもどういうわけか、第何世代の芸人になっていないし、誰もが街で一度は見かけたことのある印象的なコピーを生み出すライターにすらなっていない。
同い年くらいの中途社員の入社が増えその挨拶を聞くたびに、覚悟を決めてきたその姿に疎ましさと緊張で握られたままの彼の拳ひとつ分ほどの遠い存在を感じたことをいつも思い出す。
こうして何故だか行ってもいないまつりのあとの寂しさであれやこれやと考えてしまう。
あとのまつりにしてはいけないことが去年より重い荷物として背負わされたまま、夏が本番に差し掛かる。ホント肩凝る。