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8月の読書感想文

また読書感想文です。(タイトルの画像は、試しに生成AIを使ってみたものです)


2024年8月14日水曜日、お出かけするので、地下鉄の中で読む本として、
部屋の本棚からふと手に取ったのがこの本です。ベルサイユ・幽霊の謎

ざらっとした紙質の軽い本です。

この本との最初の出会い

最近パリでオリンピックもあったし、宝塚で「ベルサイユのばら」が再演されているし、心の中にフランス革命への機運が盛り上がっている感じで目に止まったのでしょう。

この本に出会ったときの不思議な感じを覚えています。

紀伊國屋書店新宿本店。仕事帰りに立ち寄って何の気なしに書棚を見ていたら目に止まりました。手に取ったけれど買いませんでした。でも、なんだか妙に気になってしまって、翌日お店に戻って買いました。前日、私が戻した棚とは違う場所に置かれていたので少し探して、見つけたときにホッとしたことを覚えています。

1987年に刊行された本なのですが、新宿の紀伊國屋書店に仕事帰りに立ち寄ったというルートから考えると、1996年か97年の頃のことだと思われます。初版なので、9年も棚ざらしになっていた本を買った計算になります。

まだ売っているのかとAmazonで検索してみたら、「2007年5月に購入」という購入履歴が出てきました。詳しい経緯は思い出せませんが、私の行動パターンから推理すると、多分、紀伊國屋書店で買った本を友達に譲って、やっぱり自分の手元にも置いておきたくなって、買い直したのだと思います。
栞として挟まれていたのは帝国劇場の半券でした。2007年4月7日に観たミュージカル「マリー・アントワネット」のチケットです。涼風真世さんの主演。
宝塚の「ベルサイユのばら」の華やかさとは違って陰惨な雰囲気で終わる舞台で、絶望的な後味がいまだに残っています。

栞になっていたチケット

関連して思い出したソフィア・コッポラ監督の「マリー・アントワネット」は2007年1月20日に封切られていて、ロードショウで観ました。
この頃のアントワネット様に関してのマイ・ブームの記憶が蘇ってきました。

そして、この本に書かれたお話は「記憶」がキーワードなのでした。


こんな内容の本です

エリザベス・モリソン嬢と、フランシス・ラモント嬢による共著。

・1901年8月10日、二人は、ベルサイユ宮殿に観光に出かけて、
 プチ・トリアノンのイギリス式庭園の辺りで不思議な体験をする。

・1902年1月2日、ラモント嬢は一人で訪れてみたが、再び不思議な体験をする。

・1904年7月4日と7月9日、再び二人揃ってその場所を訪れた時には、
 以前体験した不思議な感じは全く無くなっていて、景色の印象も違い、
 小径の様子も違い、植生もすっかり変わっていた。

この一連の体験とはなんだったのか、二人は時間をかけて検証します。
古い地図を調べ、史料を探しだし、関係者に話を聞きながら記憶を振り返ります。

たどり着いた結論は、こうなりました。

自分たちは王妃様の
「プチ・トリアノンの記憶を辿る思念」の中に入り込んでしまったのだ。


私自身は、この話を「馬鹿げた作り話」だと却下する気にはなりません。
仮に作り話なのだとしても、一人の女性への共感が込められている、
とてもデリケートに作られた物語だな、と思います。


本の4ページ目に、出版社から読者への謹告としてこんな言葉が書かれています。

本書で語られている体験をした二人の女性は、ともに若い未婚の女性である。そこでいくつかの理由によって、本名はふせることにした。しかし本書の中で語られていることは全て真実であり、本書の中での唯一のフィクションは二人の名前だけである。二人が真実だけを正確に書き記したのだということは、出版社の名誉と責任にかけて読者に保証するものである。

訳者によるあとがきによると、
この本は1911年1月にロンドン・マクミラン社によってイギリスで初版が出され、
2月には2回増刷され、3月にも増刷されたといいます。

イギリス心霊研究協会(SPR)の年報に、この件についての調査報告が出たとのことで、全文が巻末に収録されています。「記憶違いや思い込みもありそうで、はっきりと断言はできないけど、ちょっと眉唾なんじゃないの」的な講評です。

訳者によるオカルト現象解読の視点でのコメントも収録されていますが、この事例には類例がなく、説明しづらいのだそうです。

目次です。

2人が最初に不思議な体験をした1901年はヴィクトリア女王の没年で、本が刊行された1911年は第2次モロッコ事件(アガディール事件)が勃発してフランスとドイツとの間に緊張感がみなぎっています。1912年は大正元年です。

ヨーロッパだけでなく世界中に不穏な空気が満ちてきていた頃の本なのですね。

それが、1987年に発行されたこと自体が面白いなと思いました。この出版社では丹波哲郎氏の死後の世界に関する著作を何冊も発行しているようです。この手の本はよく売れていたのかもしれませんが、私個人は、スピリチュアル系に関する興味からではなくて、「フランス革命界隈」からの引力によって手に取ったのでした。


結局、机に向かって読んだ

お出かけの用事が済みましたが、帰りの電車の中で軽い気分で読み飛ばすような気持ちになれなくなってしまい、帰宅してから机に向かって読書を進めました。

本には大切な情報としてプチ・トリアノンの略図が描かれているのですが、肝心な建物が見開きの綴じた部分に隠れて読みづらいので、GoogleマップのStreet Viewを立ち上げました。AppleのマップのLook Around機能も使ってみました。

ベルサイユ宮殿には2回行ったのに、プチ・トリアノンには行けていないので、私には残念ながらお庭の土地勘がありません。でも、パソコン画面のマップ機能を使った宮殿のお庭のお散歩は、なかなかオツでした。

ラモントさんとモリソンさんがおしゃべりしながら歩いていて曲がり角を間違えた小径とか、歩いていたら妙な気分になってきたあたりとか、テラスから若い男の人が現れたあたりとか、以前読んだ時にはピンと来なかった位置関係が、とてもよくわかるんです。
プチ・トリアノンと隣接するレストラン「アンジェリーナ」との距離感も、Look Aroundでぐるぐる見ていると、自分がその辺をうろうろしているかのような気分になってきます。

そうは言っても、リアルな散歩とはまるで違います。風の匂いも空の高さも、今までの経験からそれなりに想像してみますが、本当に感じ取ることはできません。

この「本物じゃないのにリアリティのある視界」の感覚が、本に書かれている不思議な体験、実際に歩いているのに、なんだか現実離れしていて、どことなくチグハグで、夢の中のような曖昧さと重なって、妙にシンクロするのです。
一度最後まで通読しても、何度も前に戻ってページをめくり直しました。
読み終わったと感じたのは、翌日8月15日木曜日の昼過ぎでした。

「科学的」ではないのだけれど

この本に書かれていることは「科学的に説明できる出来事」ではありません。
原因と結果が明らかで、作用と反作用として不可避で、再現性があって理屈に合う、そういう類のことでは全然ないのです。
それは、よく承知しているのですが、共感できるのです。

それから、本のタイトルの「幽霊」という単語は、成仏できずに彷徨っているアントワネット様の亡霊が恨みや呪いを語りかけてくる、みたいな連想を引き起こすのですが、そういうのとも、違うのです。

アントワネット様が体験した厳しく過酷な運命について、
改めて振り返って考えてみます。
アンシャンレジームはもう限界で革命でなければ突破できないまでになっていた。その時、フランス王妃という立場で生きる運命だった女性について、
知っていることを次々に思い出してみます。
アントワネット様が、国民とのギャップの大きすぎる暮らしを生きてしまったことについて、その結果むごたらしい最期へと追いやられてしまったことについて。

そして、その次に、この物語は、
アントワネット様の一人称の視点に何故か立ってしまった著者の二人が、
語ったものなのね、と受け止めてみます。

「ヴェルサイユ宮殿に現れる幽霊」は、
あまり語られることのない歴史の暗黒部分に光を当てて、
「よく見てご覧なさい」と語りかけているのかもしれません。

時代を揺り動かす不穏な感じが今も低く共鳴しているような、
そんな感覚も呼び起こされてくるのです。


1792年8月10日に起こったこと

アントワネット様が、革命の渦の中で、まさに心身ともに追い詰められた日、
1792年8月10日。フランスの王権が停止された日です。

当然ながら革命を認めないオーストリアに宣戦布告されて厳しい戦況が予想される中で猛然と奮起したパリ市民は、8月9日に暴徒化して、かねてヴェルサイユからテュイリュリー宮殿に連れてこられていた国王一家を襲いました。
国王は翌朝、すぐ近くにあった議事堂に避難することを余儀なくされました。
議事堂の議長の席の背後にある狭い「記者室」に監禁されたのが、朝の10時頃。
そこは、鉄格子のはまった窓から直射日光が入る約3メートル四方の暑い部屋で、国王と王妃とマリー・テレーズと王太子ルイ・シャルル、王妹エリザベトとランバル公妃、トゥルゼル侯爵夫人が閉じ込められました。部屋のすぐ外の議事堂ではジャコバン党とジロンド党が過激な議論を交わし、建物の外では蜂起した民衆が興奮して口汚く罵り声をあげて喚き騒いでいる、という状況です。
国王一家には、食事はおろか途中までは水さえも出されず、結局、翌朝まで眠ることさえもできなかったのです。

国王一家がテュイリュリー宮殿を出てからおよそ1時間半後のことです。凶暴化した共和派のパリ市民が国王のいなくなった宮殿を襲撃します。迎え撃ったのはそれまでテュイルリー宮殿で国王一家を忠実に守っていたスイス人衛兵隊約900人。
国王は議事堂へと移る直前に閲兵をしていました。
衛兵のうちおよそ600人が虐殺され、数多くの民衆も殺された結果、宮殿は地獄のような様相に変わり果ててしまいました。その報せは暑く狭い室内に監禁された国王一家にも届けられます。日暮れ頃、ラ・ロシュフコー伯爵がようやく記者室にたどり着いたので、汗まみれになってしまったアントワネット様がハンカチを借りようとしたら、彼のハンカチは血だらけになっていたそうです。

こんな、長時間にわたる想像もつかない過酷すぎる体験に気を失いかけていた状態だった王妃様は、自らの記憶の中に「思念」を飛ばすことによって現実から逃れ出て、最も心やすらぐ場所であるプチ・トリアノンへと逃避していったに違いない
というのが筆者二人の主張です。

その思念は「パリから民衆がヴェルサイユに押し寄せてくる」との報せを受け取った日、王妃様がプチ・トリアノンを永久に去ることになった1789年10月5日、まさにその日の胸に残る記憶として、プチ・トリアノンの庭に、実際に形を結んだのに違いないというのです。

あの恐るべき夏の日から109年経った1901年8月10日に、プチ・トリアノンに遊びにいった二人は何故か「王妃様の思念」の中に歩み入ってしまい、王妃様の記憶の中に息づいていた世界の内側を歩いてしまったのだ、というのです。

パソコンでマップを見ながら

筆者の二人は、王妃様の思念の中に歩み入ったときに、なんだか生気のないようなおかしな感覚に包まれた感じがしたと書いています。もちろん質的には全く別のものですが、私も、パソコンの画面を通じてプチ・トリアノンの庭を覗き込んでいる時に、なんとも言えないもどかしさにつきまとわれました。

私はヨーロッパのお城を観光で訪れるたびに、昔の人のきぬずれの気配をその場の向こう側に想像するのが好きなのですが、昔の人の気配を掴もうとしてもパソコンの画面越しでは、息遣いに膜がかかっているような、画面の向こう側の人も伝わりきらずに焦れているような、そんな感じに、つきまとわれていました。

明らかな誤表記が1箇所あって、「マダム・ロワイヤル」を「ロワイヤル夫人」と記載してありました。実際には、マダム・ロワイヤルとは王家の長女マリー・テレーズのことなのです。
早速Wikipediaにアクセスして、当時14歳だったマリー・テレーズの流転の人生を検索し、さらに人間模様を追いかけていってしまいました。マリー・テレーズは、この時の苦難を共に過ごしたにもかかわらず革命後にナポレオンに接近して生き延びたカンパン夫人を、その後の生涯にわたって決して許さなかったそうです。
記者室に監禁された時に近くにいた人物の一人として「ド・ポワ王子」と書いてあって見慣れない名前に戸惑ったのですが、どうやらPrince de Poix、「あのノアイユ夫人」の息子のようでした。Wikipediaの記事をたどるとノアイユ夫人とその夫は、1794年6月27日の同じ日にギロチンにかけられています。

本から手を離してからも、私は、いつまでも情報の海を泳ぎ回っていたのでした。


もの思う、8月

読み終わって、いつものように手帳に読書メモを書き込みながら、軽い気持ちで手にした本がきっかけで、過酷すぎる運命を生きたアントワネット様に再び想いを馳せて、思考がこんなに遠くまでさすらうことになったことに驚きました。
そして、読書感想文としてしっかり書いておきたくなりました。

8月は、過去にあったことを振り返るのに適した時間なのかもしれません。
振り返る思考の入口として、科学とは違う切り口を持ったお話が書棚から私を呼んだのだとしても、あまり不思議なことではないような気がしています。

アントワネット様が議事堂の小部屋に監禁されたのは1792年8月10日。
夥しい人数のスイス衛兵が虐殺されて、暴徒の多くも命を落としました。
多くの命がいちどきに失われる時、その衝撃を感じる人もいるのだそうです。
でも、そんな特別な感受性を持っていなかったとしても、つい先刻まで王家の安全を守ってくれていた、閲兵したばかりの衛兵たちが暴徒たちによってむごたらしく殺されたことを知った時、アントワネット様の感じた絶望を、想像ないではいられません。
そして、衛兵たち一人一人の無念の思いは、どれほど深かったことでしょうか。

アントワネット様の「一人称の思念」にシンクロしながら8月の空を見上げた私の心に「命の悲しさ」が強く強く響きました。

フランス革命のあとの歴史でも、人類は「間違った行動」を繰り返して、
信じられないほどの多くの命が人間の「愚かな行動」が原因で失われたことを、
私たちはよく知っています。
現在進行形で行われていることも、忘れてはいません。

「リベルテ・エガリテ・フラテルニテ」を勝ち取るために王政打破を実現したフランス革命は、人類の偉業だった、それは間違いないことだと思います。
革命の前のアンシャンレジームがどんなに理不尽で非人間的で、個人を搾取するものだったかについても理解しますし、そこで押しつぶされてしまった人々に寄り添うと、共感を覚えます。
だけど、革命で流された血は歴史の必然だったというふうには、私は考えたくないのです。

オリンピックの開会式で、ドゥビリ橋の上で繰り広げられた農民のダンスに私はとても感動しました。
好きな人と愛と喜びに満ちて好きなダンスを踊る姿に、革命の理想を見ました。
最後には愛が勝つ、愛の讃歌を歌う未来のために、革命は行われたのだと感じられたのです。(お時間があったら、先に投稿したこの記事を読んでみてください)

革命の結果獲得された「リベルテ・エガリテ・フラテルニテ」は
21世紀の今でも色褪せない、不滅の価値のある概念です。

「フラテルニテ」は、日本語では「友愛」とか「博愛」とか訳される言葉ですが、リベルテ(自由)よりもエガリテ(平等)よりもわかりづらい概念だと思います。
そのフラテルニテは、アントワネット様に対してはほんの僅かしか行われなかったことを思います。
歴史の中でどうしても避けられない運命の結果だったのだとしても、
アントワネット様個人に対してどれほど酷いことが行われたのかについて、
知れば知るほど、慄然とするしかありません。
歴史の大きな流れの中で、誰かが優柔不断だったから、
誰かが欲深だったから、誰かが我儘だったから、というようなことが、
不公平な社会を作った根本的な原因でないことは明らかだと思います。

フラテルニテは難しい。
常にフラテルニテを理念として、意識し実践している人は、立派だと思います。
だけど、だからこそ、革命から200年以上経った2024年の8月に、考えます。

今こそ「フラテルニテ」に注目すべき時なのではないかと。

いきなり話題が大きくなりますが、

世の中全体を見渡すと、フラテルニテが足りていないのではないか、という疑問が湧いてきます。
フラテルニテが不足している自由と平等とは、美さや品位に欠けるのではないか、とも、感じるのです。

歴史を歩んでいく途中では、
道に迷うことも、その結果、間違った選択をすることもあり得ます。

なぜ、迷って、間違ってしまったのか。
次には決して間違わないために、どうしたらいいのか。
私にできる「間違わないためにする行動」とは、何なのか。

考える材料は、もちろん、フランス革命だけではありません。
私よりも上の世代の人の体験を見つめることもそのひとつでしょう。
世界を美しいお花畑にしましょうよ、と呟く方法を探すことも、
そのひとつかもしれませんね。

立ち止まって考えをめぐらせるための舞台として、
8月の暑い空は広がっているのかもしれません。

読み終わった時に窓の外に広がっていた雲。


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