ウゾとキウリ
新鮮なキュウリを大きく切って、塩だけまぶしてバリバリ食べる。思い立って、海苔を巻き醤油をつけてみる。村上春樹さんの『ノルウェイの森』に出てくるキュウリの食べ方だ。ぽりぽりかじっていると、一本あっという間に食べてしまった。みずみずしい夏の味がする。
『ノルウェイの森』の海苔巻きキウリ
村上春樹さんの小説『ノルウェイの森』で、なぜか忘れられないエピソードがある。主人公のワタナベ君が、大学の同級生の緑と彼女のお父さんが入院している病院を訪ねる。緑に代わって病室で留守番をしていた彼は空腹を感じるが、大した食べものはなく、キュウリに海苔を巻き、醤油をつけてぽりぽりと食べる。
「うまいですよ」と僕は言った。「シンプルで、新鮮で、生命の香りがします。いいキウリですね」
緑の父がキュウリを求め、食べやすい大きさに切ったキュウリに海苔を巻き、醤油をつけて彼の口に運ぶ。
「どうです? うまいでしょう?」と僕は訊いてみた。
〈うまい〉と彼は言った。
「食べものがうまいっていいもんです。生きている証しのようなもんです」
私も真似をして、キュウリに海苔を巻いて食べてみた。ご飯のない「かっぱ巻き」みたいだ。この夏、採れたてのキュウリをもらったので、久しぶりに海苔巻きキュウリをやってみた。新鮮でみずみずしくって、こういうのが「生命の香り」なのかもしれない。村上さん言うところの“小確幸(しょうかっこう)”だ。
明るい面に目を向けて
“小確幸(しょうかっこう)”とは村上さんの造語で、「小さいけれど確かな幸せ」のこと。村上さんがDJを務めるラジオ番組「村上RADIO」に合わせて放送される「村上RADIOプレスペシャル」で「わたしの小確幸」というテーマでメッセージを募集していて、この言葉を思い出した。
村上さんが初めてラジオのDJをしたことは知っていたのだが、聞きそびれてしまい、てっきり一度きりの企画だと思い込んでいた。2020年の5月に「村上RADIOステイホームスペシャル〜明るいあしたを迎えるための音楽」と題した放送があることを知り、ラジオを通して村上さんの声を聴いた。この時は自宅の書斎からレコードをかけてくれた。
最初に紹介されたのが、The Modern Folk Quartet(モダン・フォーク・カルテット)の“LOOK FOR THE SILVER LINING”。“Every cloud has a silver lining.”という言葉があるそうだ。雲の後ろから太陽の光が差し銀色に輝いて見えるように、どんなに困難な状況でも、明るい面を見出すことができる。「明日を信じよう。そういう前向きな歌です」と村上さんは紹介している。
ギリシャの夏の午後
夏の日にキュウリをかじっていると、思い出すことがある。ギリシャで過ごした遠い夏の記憶だ。外では太陽が強い光を放ち、空気はジリジリと熱せられていく。でも屋根の下にいるとそれほど暑さを感じない。昼食までにはまだ時間がある。
コップに注ぐのは、ギリシャの蒸留酒「ウゾ」。水を入れると白く濁り、アニスの香りが漂う。皿の上には薄く切ったサラミとチーズと茹で卵にキュウリ。このとき初めてウゾを美味しいと思った。
2004年の夏、ギリシャに滞在したときに、日本人女性Mさんにお世話になり、ご自宅に泊めてもらった。昼食までまだ時間があるのんびりとした時間。週末でMさんの夫のDさんもお休みだ。ギリシャでは朝は軽く済ませ、昼食をたっぷりと食べる。食事の時間は午後2時くらいからなので、軽食を取ることもある。
Mさんがウゾとおつまみを用意してくれた。私はこんな感じでウゾを飲むのは初めて。大きな皿には、スライスしたサラミと塩気の強いギリシャのチーズ、茹で卵にキュウリが並ぶ。ギリシャの食卓に欠かせないオリーブも。
ウゾはギリシャを代表する食前酒で、アルコール度数40度以上。アニスというセリ科のハーブで香りづけされている。透明の液体に水や氷を入れると白く濁る。
前にウゾを飲んだことはあったが、アニスの香りが歯磨き粉を思わせて、あまり美味しいとは思えなかった。でもこの日は違った。爽やかな香りが夏の午後にぴったりで、塩気の効いたおつまみによく合う。キュウリのスライスもみずみずしい。
海外でキュウリを食べると日本のものと違って大きくて驚く。ズッキーニみたいだ。イギリスでも大きなキュウリが1本ラップフィルムに包まれて売られていて、珍しかった。子どものころ、祖父の畑で見た大きく育ちすぎたキュウリを思い出す。中の種も大きくなって大味になってしまうけれど、外国で食べたキュウリはしっかり実が詰まっていたので、種類が違うのだろう。
村上春樹さんの『ノルウェイの森』では、「キウリ」と表記されている。私がギリシャで買った日本語のギリシャ料理の本にも、「きうり」と手書きの文字で書かれていた。ちなみに『ノルウェイの森』は、ギリシャのミコノス島で書き始められ、ギリシャとイタリアを行ったり来たりしながら書かれたたそうだ(『遠い太鼓』『うずまき猫のみつけかた』より)。
ギリシャの旅の記念にウゾを買い、お土産にももらったけれど、なかなか飲むタイミングがなかった。このエッセイを書くのを機にボトルをあけた。アニスの香りが漂う。やっぱり歯磨き粉みたいに爽快な風味だ。
ささやかだけれど確かなしあわせ
夏の日の冷たいビールと新鮮な“キウリ”。毎週楽しみだったドラマ、久しぶりに読み返した本、好きなアーティストの新しいアルバム。海外にいる友だちも交えたオンラインでのおしゃべり。ポルトガルの微発砲ワイン「ヴィーニョ・ヴェルデ」は、遠い日の旅の記憶を思い出させてくれた。
炊き立てのごはん、上手に焼けたトーストにバター、コーヒーの香り。ああ、また食べものの話になってしまった。絵画のような朝焼け、青い空に浮かぶ白い雲、夢のように美しい夕暮れ、夜空を彩る月と瞬く星。私も明るい一面に目を向けて、ささやかだけれど、確かなしあわせを探してみよう。
(Text s: Shoko, Photos: Shoko & Mihoko) ©️elia
※写真はイメージ。ミコノス島と空の写真はMihoko撮影
■参考文献・サイト
「村上RADIO」(TOKYO FM)
『遠い太鼓』『ノルウェイの森』村上春樹(講談社)
『村上朝日堂ジャーナル うずまき猫のみつけかた』(新潮社)
『ヨーロッパ・カルチャーガイド⑧ギリシア』(ECG編集室、トラベルジャーナル)